『この人この世界』ギョッとする江戸の絵画・14 奇想天外の仙人たち−曾我蕭白

応挙はアーティザン(職人)であって、自分はアーティストなのだと。


だったらどうして応挙の描いた美人画と顔かたちが酷似してんだよ; モチーフは確かに全然違うけど、骨格の取り方とか肝心の姿がよく似てんだよ。言っちゃ悪いけどちょっとその美人絵って露悪的に見える、というかわざとらしい。
応挙への単なる嫌味みたいに見えちゃいますよ、あんな見せ方されたら。
や、“狂乱の女”だから駄目、応挙みたいに慎ましやかじゃなきゃ、ということではないですよ。それこそ能でも歌舞伎絵でも(時代は彼らより下るけど)、強い女っつーのは私なんかはそんなに珍しくなく見てるわけだし。
でもなんか蕭白さんの美人画(美人絵?)は、単なる反発みたいに見えて、どうこうということは思えない。ただ、だからいいとか悪いということではなく、ある意味で歪んだ形の応挙(とは限らないけど彼の系統)の弟子の一人なんじゃないかなぁ。
なんつーのか正直、独学で完全に始めたというよりは、習っていたところから逸脱していった人ではないのかという気がするんですけどね、やっぱり。
この一回前の白隠さんなんかとは違う。


白隠さんの絵の影響も受けたってことなんですけどね。
まあ、それは確かにわかんないでもない。


Wikipedia曾我蕭白


丸山応挙の同時代人であって。
彼をライバル視していたのだ、ということなんですが。
江戸の奇想ナンバー1だー、と辻さんも持ち上げていたんですが、ぶっちゃけてライバル視というより“片思い”にしか見えないわけで。


だって応挙さんて、確かにやたら有名で持ち上げられてて。
そいでもって弟子もいっぱいいたりしたみたいだけど、端正で美しいじゃん!


正直さー、蕭白さんの感性だったら応挙さんの絵もイケたんじゃないっすか。自分の求めるものとは対極の、しかしあれはあれで当人の素直な感性の発露って気がするんですよね。確かに時代に求められてはいるんだけど、行儀はいいんだけど。
丸山応挙さんの場合は、それは彼の自然な姿なんじゃないかと。
大人しい本性ってのが存在しないわけがないというのもまた決め付けでしょう。
けれど蕭白さんにとっては、それに従えば自分を殺すことになる枷が、形になって現れたようにしか思えなかったのでしょーかね。だから反発した(迷惑な話だ)。


しかし応挙さんの側に、「そんなの気にすることもない」という程度の反応すらなかったというか、彼のことを調べてもこんな人が同時代にいるということすら知れないとなるとそれはもう、片思いとしか思えないわけで。




応挙さんを語り倒しているのはまあなんというか。
だって、直接彼をやってなくてもよく聞くからで、それが否定だろうがなんだろうがまあ無視しては通れないんじゃないかなー、という気がするからです。
こんなに目立つのに、性格について言動について聞いたことがない。
そっかー、周囲からは迷惑掛けられるばっかか、、、はははは。


いくらなんでもスペース割きすぎですが。


ラストで蕭白さんの作った普通より幅の広い八枚の障子(三重県限定なのですかあれ?)に、いっぱいに描かれたムキムキ龍(辻さんの表現したのは“ムキムキの下品さに溢れた”ですが、気にしない)を再現したところを見て。


――いや、応挙先生もさすがにこれを見たら「参った」と言うんじゃないですか。


などと辻さんが言ったもので、あー、やっぱり応挙さんを無視れないんだな、という感慨に耽っちゃったんですよ。なんですか、辻さんは辻さんで蕭白さんが一番の共感キャラなのですか(キャラ言うな)。
応挙さんはお行儀正しく招待に応じて、「参りました」と爽やかに言って。
社交辞令だろ、と蕭白さんを死ぬほど悩ませるといいんじゃないかと思います、そこまで行くと妄想になってますが。でも大作へ招待出したら来てくれそう。
(社交辞令で)(をい。)




とはいえ、中国の八仙を描いた屏風なんてのはさすがに一見に値するもので。
(ムキムキ龍もまあすげぇとは思いましたがぁ。)
なんてまあ如何わしい、どこをとっても隅から隅に至るまでしつこく細かく下品っていうか、癖があるっていうか、意識して「奇を衒ってる」とは言えなくもないんですが、あまりにそれに拘りすぎて当人も自分で途中でよくわかんなくなっているというか。


なんというのか常に自意識過剰気味の人なんですが。
あまりにもその方向性に行き過ぎてしまってついに一線を乗り越え、「この人はこれをシラフで描いたんかいな」と言われてしまうような画風を生み出すこととなったよーな気もしないでもない。


ちょっとこう「やらしい」絵として見るといいんじゃないでしょうか。
男臭いっていうか、下品っていうか、露出狂というかそんな感じに。