『美の巨人たち』ホッパー「二人のコメディアン」

“ホッパー”で検索してみたら、下のページがトップで出てきてしまいましたもので。
愛を感じるというか、ぶっちゃけ細かいっすネ。
どう見ても素でファンです、本当に(ry


それにしても同じ画家を取り上げることもあるんですね。
いや、映像で見れない過去の回には興味がなかったんで(さっくり)。


美の巨人たち』:ホッパー「ナイト・ホークス」


ホッパー晩年の作、『二人のコメディアン』は要するにホッパー本人だな。
というのは開始してから下手をすると数分、3分の1もいかない辺りで見当が付いてしまい、じゃあ傍らの女芸人は誰かしら、と考えた辺りで彼の妻、ジョセフィンが登場。


そしてラスト付近では力技で感動展開に持って行かれました。


もはやこう、不満はあれだけですね、いっそここまでわかりやすい作りにするのなら、最初から結論言っちまってもいいんじゃないのかと。その上でじっくりゆっくりとなんでそう考えられるのかを語っていく構成のほうが良かったんじゃないのかなと。
んにゃ、“気付かせる”ということの感動が強いのはわからんでもないんですけどね。
さすがにそういう意味ではわかりすぎました、この回に関しては。




ホッパーの作品の中の人物は皆視線を余所に向け。
そして無表情、細かいシチュエーションがあり、ドラマがあるように見えるのだけれども、それが語られることはない。あれやこれやと巡らせた想像の一つ、という形で絵とよく似た「彼ら」が語り織り成すドラマも良かったです。
なんていうのかなぁ、この手の演出は兼ね合いが大事なのかなぁ、と。
もちろん絵の「正解」が存在するわけではないんだけども。


そういう解釈もありえるな、ということではなくて、絵を愛し、だからこそ生まれ出たドラマなのだとホッパーを知らない人間にも見てるだけでわかったのが良かったんじゃないのかと。


その遠さというか、控えめなところが、逆にこういう解釈もありえるのかもしれないという余地を残していたような気もします。
しかしなんというか、どなたか知りませんがホッパーさん好きっすね。
ドラマの作り込みっぷりが半端じゃない上に、セットの再現度が半端じゃありませんよ、さらっとした演出だからって入れ込みっぷりを誤魔化せると思ってるんですか一体(なんで誤魔化してると思うんですか)。




特に注釈があるわけでもないんですが、彼の絵はどこか孤独。


なんだか時代の繁栄のようなものに置き去りにされてしまった、というか、いや、体は置き去りにはされていないでその場所にはあるんだけど(ガソリンスタンドのおっちゃんとか一部は除く)、気持ちは完全についていかない人たちが描かれているのかな、という気がします。
もちろんそれも私の妄想なんですが。
なんでそうなるのかなー、どこにいるのかな、なにをしているのかな、と考えるというのは、どっかしらで我々に通じるものがすでにその絵の中に現れているからなのではないのかと。


孤独の意味を知らない現代人て、むしろ希少じゃないのかなと。


あのラストの、ホッパー夫妻を模した小劇の、老芸人夫婦なんかがね。貧乏だったねー、大変だったねー、でも幸せだったねー。と語る時に、彼らを見てる観客は言葉や絵の中には登場してはいないんだけど、それに恨みを持っているような気もまたしない。幸せの理由の中には確かに観客という要素も含まれている(描かれてないけど)。
繁栄に乗れなくて、上手く社会に反り合わなくて、貧乏で。
でも、彼らが抱いているのは別に恨み言でもないんじゃないのかと。
光としては描かれてないけど、「光」である存在の持つ意味や代償すらも既に知っている。


なんとなくだけれども(調べればわかるんだけど、いつものごとく調べない)アメリカの繁栄と、それが生み出す影というか煽りを食らってしまう人らが社会的にも認知されて来た頃なんじゃないのかと思うんですよ。
しかし、繁栄してる側にもそれがないかというとそうでもないんじゃないか。
だからまあ、こう、老夫妻は笑って彼らに挨拶したんじゃないのかなぁ、と。
うんだから、妄想なんですけども、もちろん。


世には相容れなかったけど、ジョセフィンだけは別だよと。
でも、絵筆が取れなくなってしまった、と宣告された約1年後にカーテンコールを描いて最後の別れを笑ってし、その一年後に死に。
そのさらに一年後にジョセフィンも逝ったそうなんですが。
なーんも残さない、さっぱりした人生だなぁ、と思いますよ。実にね。