『美の巨人たち』ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこに行くのか」

かましい。


と、タイトル(今回は絵の名前ですな)を見返していてついうっかりと思いました、思春期じゃあるまいし! とか、今度はナチュラルに思春期を迫害してるようなことを言い出すわけですが、なに同族嫌悪です。
お気になさらず。


Wikipediaポール・ゴーギャン
ところで「タヒチ」と言った瞬間に母が「ゴーギャン」と。
なんか有名らしいですね、ちなみに私はヨーロッパに関してはほとんど知識がありません、ていうか正確にはヨーロッパに関して“だけ”ほとんど知識がありませんというかなんというか、ところでゴーギャンについて語る気がないのかよというくらい、初っ端から話が脇にそれっぱなしなんですが。


ナチュラルに迫害したくなるような見事な思春期ですしほら。


なんというか、芸術家や音楽家はまともに人生を送っちゃいかんのか、という認識があるのは主にこの人やゴッホのせいじゃないかと思います。とりあえず絵画方面では。
というか、あくまで至高の芸術性どうこうではなく。
わりと世俗の評価を追いかけっぱなしだったってのがなんか楽しいなと。


いや、まあ、世間一般的にはそう見られてないのだろうとはわかってるんですが、少なくとも超越していた気は全くしないわけで。
せこせこせこせこ、「真実」とやらを探して右往左往。


しかもその情報ソースがなんかミーハーですよ、雰囲気に流されがちというか、なに夢見てんじゃい、というか。楽園扱いされたほうが迷惑というかなんというか。
その上、その「楽園」は自分のこと受け入れてくれること大前提っていうかぁ。


書き出してみて始めて気付きましたが、かなり素で本気ですね私。
いや、書く前は冗談のつもりだったんですが、おかしいな。


タヒチを楽園だと勝手に思い込んで押し掛けて、なんかズレたことして現地の人らに引かれていたとか、帰ったあと意気揚々と個展を開いて受け入れられなかったと嘆いたとか。妻子に捨てられたとか...orz
もうぶっちゃけ、なんかこの人の半生辛いです。。。
そしてその半生をありったけ篭めたのが表題の一作であり。


そっから人生は好転したというか、死後は評価もかなり上がってったというか、今やその時代を代表する画家であるとまで言われていたりするわけですが。


つまりななにか、人間の本質って「そう」なのか。
皆明言まではしなくてもなんとなくそんなふうに感じているのか。
と、言われてしまえばなるほどと思えなくもないです、まあそんなものなのかもなぁ。そして別に、「そういう」半生を篭めた作品が嫌いというわけではないです。そしてその作品がそういう彼でなければ描けなかったのだよと言われたら、あー、そんなものかもなー、と実際に思わないでもないです。




そして、そういうことを認識した上でタイトルを読んでみて。
やっぱり「やかましい」と思う辺り、どうもこう、私ってヤツはいまいち思春期を抜け切っておらんのではないか引き摺っているのではないかという疑いが濃厚なわけですが。せめてゴーギャン辺りよりはもうちょっと要領よく生きたいと切に思うのですが。


もしかしたらゴーギャンも考えなしなだけで、特に不満もなく。
そしてわりと我が侭に、なんだかんだとちょこちょこ他人に受け入れられながら生きていただけなのかなー、という気もしないでもないです。ちょっと大き目の勝負したら負けてたってだけで。
まあそんな人は世間に履いて捨てるほどいるわけだし。
(「実際に」能力があるからちょっとしたことに見えるのかもしんないけど。)


自分が何者で、自分がどこから来て、自分がどこに行き、なにをしなくてはならないかわからないから周囲を見回してそれっぽいものに飛びついてしまうのだと考えたら、それは正しく絵画の内容、絵のタイトルのその通りだとは思うわけで。
超越した、割り切った人には確かに描けないのかもしれない。


つーか、超越した人の絵ってのは。
もしかしたら大多数の心は普遍的には打たないのかもしれない。


しかしやっぱり、別に嫌いではないけど好きではないんですよ、この絵も。このタイトルも、いやなんか、直球すぎて。
そして、美しくまとめてはあるものの、多分皮肉なんだろうと思えるところも。


けれど、この絵を描いてから後、全てを失い死ぬはずだった、遺作のつもりだったはずのところから、徐々に穏やかに生活を積み上げていったってとこは嫌いじゃありません。
そしてなんか、この人、自分が愚かだって知ってた気もするんですよね、なんとなく。