『私のこだわり人物伝』折口信夫−古代から来た未来人 第4回 未来で待つ人

おー、項目あったあった。w
しかしまあこんな長いのは読むの面倒いわけですが、確か聖徳太子の前後に導入されたんだよん、という冒頭部分はさすがに押えました。


Wikipedia日本の仏教


ところでまあ、3回と間違えて先に4回を見てしまったわけですが(書いてからだいぶ時間を置くので実際には順序直ってるかと思いますが)、最後の最後の締めの段階までさっぱり気付いてなかったという辺り。
えーと、抽象論がすぎるんじゃないかと思います。
うんでもまあ、題材が題材だししゃあないんですけどね。


ちなみに「死者の書」というのはとある方面に有名だった気がします。
どこだっけ、オカルト系だったか、カルト系だったか(名称自体は似てるけど内容はかなり違いませんか)、なんでも愛人だった養子が戦死したので書いたんだと言われているもので、なにぶんにもその感傷っぷりに同調出来る自信がなかったのでタイトルを気に掛けながらも手付かずだったんですが。


そんな内容だったんかいと。


郎女(いらつめ)っちゅー女の人なんだけど仏像を彫ったんだという偉い人で、折口氏の故郷の寺に祭られてる人なんですが、その彼女の時代。
それよりも約百年くらいだったか前の、政治闘争に敗れて兄弟に殺されちゃった男だかが憑りついて、まあ特に悪気はないっぽいんだけどしつこい。
むしろいらつめさんに恋心を抱いているというか、生前の恋人の面影を見ているんだけれども、なんというかしつこい。
恨みを残して死んでいるわで、多分愚痴っぽい。


その男を慰めるために、当時輸入されてからそんなに時間が経っていないという仏教を用い、仏像を作ったんですよん、というそういう話。


ちなみに死んだ男が出没するのは神道のメカニズム。
日本古来の「荒ぶる神」なんかに相当するわけで、それを沈める方法論がなく(基本的になにかを自分たちから仕掛けるということはなく、姿勢的に受け身だったわけだ)、そのために仏教の方法論でもって神々、要するに祖先たちに静かになってもらおうとした歴史は実際にどうも存在するようです。
つーか、そういう考え方がある。


にゃ、もしかしたらそれを発見したというか、そういう考え方を始めたのが折口信夫だったりするのかもしれないけどね。誰が唱えたものかまでは正直知りませぬ。
しかしまあこれは正直あくまで小説であるのですが。
創作も自分の主張を広めるための媒体だと考えていたようです、彼の人は。


しかしだ、説明されなきゃわかんないよ、主張しどころが!
つーか、これで本当に愛人兼養子のために書いた内容なんですかね、死者うっとーしーよー、どうにかすれー、という展開になっちゃうような気がするのは単にあらすじだけで読んでないからでしょうが。
「すごく死者は我が侭っす」みたいなことを書き連ねるのは感傷なのか感傷なのか。


別に我が侭って言ってるわけではなくて、近視眼的というか、己の目的しか見えなくなってるのが死者ってものなんだよ、という説明をしてるらしいのですが。
納得が行くものがあるというか、ぶっちゃけオカルトの幽霊がそんな感じで認識されていることが多いような気がするんですが。


あんた学者だろと。


ひょっとして、実際に会ったのかどうなんだ、亡くした養子愛しさに本を書いたというよりは、なんとかなんねーかこの養子ー(没後)、という気持ちで書いたとしかとりあえずさしあたっては思えないわけなんですがね。




しかし、この理論というか理屈部分。
神道をベースとしたところに、仏教の概念を輸入し、自分たちの生活のある意味での精神的な糧にしたのだ、という部分はけして悪くはないもので。
それはキリスト教の時にも同じようなことが起こったと(中途までの遺作)。
我々が現在もそうやって、無造作に輸入を続けているその源流を感じることが出来るんじゃないかと思います。正しいかどうかの判断は置いておいて、少なくともそういう思考の筋道は非常に面白い。


わかりやすければの話だけどな。


どうもこの人物、そういう部分の摺り合わせが下手だったんじゃないかと。
そしてそのことをわかっていてもどうにもならなかったんじゃないのか。
女性が苦手だったって意味わからんでもないな、、、特に一部の女性との反発はすざましいものがあったんじゃないかなぁ。同族嫌悪というか。


直感で生きてたみたいな人だと、どうも語り部さんも感じてたんじゃないのかしら。