『美の巨人たち』印象派のパラダイス

とりあえず、モネの真っ当さに乾杯でもすべきでしょうか。
てゆーか、他の奴らが悩んでいるのは本当に芸術のことなのかそれ?!
と、突っ込むべきなのか、ようわかりませぬ。


美の巨人たち』:“印象派のパラダイス


リンクつないでみたんだけど、詳しい内容ないなぁ。
とりあえず≪印象派≫と呼ばれる作家たちの中から四人、モネ・ゴッホセザンヌルノワールと来るわけですが。なんで耳なんて切り落としとんねん、ゴッホ
などと無粋にも母が言うわけですよ。
言われてみればというか、やっぱり芸術家だっし→、などとそらっとぼけていましたが直球で来られますとそういうわけにもいかず。
考えてみるんですが。


耳切り落としたら痛いよね、というところに結論が至るので。
もしかしたら私の中にも芸術家魂は眠っているのかもしれませんが、一度そういうふうに思っちゃったらもう理解は無理なんでしょう。そりゃ、いてぇよゴッホ!!


他人に切り落とされたというほうがまだしもです。
んでも、そのくらいでなきゃ、素晴らしい絵は描けないのです、とか言う輩がもしいたら、それもそれで違うような気はします。耳切ったから偉いわけでは少しもないと思う、耳を切るに至るまでのどうにもならん激情というかポテンシャルというか、コントロール不能のそれが必要なのだとしても、「耳切ったら痛いよ」という感覚を忘れ去ったところにも芸術はありえないんじゃないかと思うんですよ。
だってなんつーか所詮、芸術って人間にしか通じないじゃない。
どう言おうとなんと言おうと文化の所産でしかないんですよね。




モネの静かなそれも、生涯を貫いた「光」も立派に一種の凶器だと思うし。
とりあえず、ゴッホはやっちまったから仕方がないとしても、そんなのが今後も画家にぽこぽこ生まれて来られても困るんですよ。切ったら一人前みたいな。
宗教でもやってろタコという気がします。


てかさぁ、やっぱり油絵の道具が悪いと思うんだよ、あのナイフ。
油絵の具を盛るためにあるあれ、じっと見てたらちょっくら魔が差しても多少は仕方がないというか、日本の筆なんてよさげですよゴッホさん。他人の体にエロいことするくらいしか悪戯の仕様がないですし(普段なに読んでるんだ貴様)。


いや、ゴッホと、彼と同居していたゴーギャンの印象が先行してしまってますが。。。


セザンヌルノワールも案外大概だな(←検索しました)。
前者が異様な潔癖症に、まあこちらはそれほどでもないんですが、リューマチが進行しても描き続けたという(ごめん、よく考えたらそんな悪いことじゃない)悲劇の画家。


印象派ってのがそもそも、彼らの生前評価されなかったことも関係あるのか。
前時代を壊すという位置にあるからなのか。
そのくらいのエネルギーがなくては、新しい時代を切り開けないのか、それともそもそも、時代に相容れないからこその存在なのか、印象派そのものが。


モネも含め、ほとんど全ての画家が社会からドロップアウト同然に消えていきます。
それは評価されていなかったからなのか、そういうことでもないのか。
なんとなく、彼らに生前の評価があったらもう少し価値の低い絵を描いていたような気がしてしまうのはなんでなのか、ただの思い込みなのか。
けれどね、モネが気になるんですよ、そういうふうに定義してしまうとしてしまうで。




モネは高い評価に溺れなかった気がするし。
世間が自分をどう捉えようと、仲間がどれだけ狂おうと、自分だけ静かに人生を重ね、ひたすら己の中のモチーフを追い。社会から逃げたわけではなくて、それを探しに行ったような気がする。
ならば彼は、必ずしも印象派でなくても良かったのか、別の時代、別の文化に生まれていたら別の表現方法で世に出たんじゃないのかと思うんですよ。


いや、なんの話をしたいのかな。。。
他の画家たちは、多分、この時代、この印象派というグループの中で生まれたというか、不満や焦りがやっぱり彼らの主題だったような気がする。けれどモネは、シンプルな意味での芸術家だったんじゃないか。


どちらが優れていてどちらが、という話をしたいんじゃありません。
印象派というものを語っているにしてもバラけていますしね。
他の画家たちの人生がそれぞれの「絵」を生み出した、モネの人生は「絵」のためにあった、なんだかね、そういう気がするんですよ。それだけなんですが。