『美の巨人たち』エド・ヴァン・デル・エルスケン「セーヌ左岸の恋(写真集)」

しかしあの兄ちゃんの取り得は可愛い顔ですかと。
過去を振り返る時に美化したいもんだしなー、オヤジはー。


みたいなことを素で思っていましたすみません、今も続行してそんな感じなのでもっとすみません、改めませんが自分でも失礼かなとは思わないでもあません。
つーか、整った顔って、、、なんて言えばいいのかな、感傷的というか、そういう見た目でもあることが多いよね。よく笑う人は整っていても美人と思われにくいというか(もちろん笑い方にもよるわけなんだけど)、悲劇が似合うっていうか。


若者らしい不安定さは多分見目いいほうが絵にはなるというか。


美の巨人たち』:「セーヌ左岸の恋(写真集)」
(密林.com)


なにをがたがたと語っているのか己でもよくわかりませんがとりあえず。


――写真集はフィクションなんだよ!


というところを、どんな写真集であるかということをすっ飛ばして頭に入れようと思います。よく考えたら、他人の恋路をのこのこと追いかけて、いい感じの表情をする瞬間とか、そういう表情をリクエストしたりしたらその場で殴られかねないわけで。
ぶっちゃけ、そこでイラつかない人は恋愛状態とは言いにくいというか。
少なくとも情熱的なタイプではなさそうですよ。
つーか、私なら殴りますよ、それを回避するためには恋愛の片割れが自分であるなんて手段もあるのかもしれませんがセルフで撮るのもなんか間抜けだなと。


てか、その場合は純粋に恋人を撮るための写真集になったろうなと。
それがいいとか悪いとかじゃなくてテーマは全然違ったんじゃないのかな。


この写真集というのはそもそもドキュメンタリー仕立てで、二人の若者の恋路を淡々と追っているという「構成」ではあるようなのですよ。
けれどそれは演出だったのだと、そういうことを番組は語るわけです。


ならば、写真集としての価値は下がるかというと、別にそんなこともないんじゃないか。というかそもそもそんな価値がどうのということを触れもせんと、実はこの登場人物名前も別なんですよと告げるだけ。
そして多分、その写真集が認められた時は実際にあったことだと思われていたんじゃないでしょうか。そして、それがそうでもなかったとわかった時。
なんというかそれほど大した感情の擦れ違いはなかったんじゃないか。


ああそうね、と納得し、一応は勘違いしていただろう認識を捨てるのにも特に誰にとっても苦痛はなかったんじゃないのか。


なんというのか「恋愛」を主体に描いたものではなかったんではないのかと、写真をそんな真剣に見たわけでもないのに言うわけですが、あくまでその写真集は、その「セーヌ左岸」というどことなく行き場のない若者たちの寄り集まる。
少しばかり特殊な場所がメインだったからなんじゃないのか。
そしてそれを表現するために「恋愛」すらも添え物だったんじゃないのかと。




その風景が例えばセットだったり、そして、全く違うところから連れて来た青年たちにそれっぽいメイク、服装をさせてその写真を撮っていたというのなら。
それはもしかしたら「あざとい」という印象を免れなかったんじゃないのか。
しかしエルスケンからしてそこにいて、そしてモデルたちは有名でもなんでもない、多分なんらそういう職業とは(少なくともその時点で)関係のない、真実その土地の、セーヌ左岸の不安的な青年らであったというのが動かないなら、それでもう構わないのではないかと。


つかそもそも、そんな嘘はつかないんじゃないかとね。


あの、非常に印象的なエルスケンの眼光を見ると思います。
ちょっと検索しただけでも、彼の写真がいくつも載っていたんですが、なんつーかそれも納得。ちょっと野生の獣じみた、、、いやちょっと表現悪いか、物凄く鋭い目をしているのが記憶に残ります。




なんでそうなるのかは置いておいて。
それほど少なくない人間は、若い一時期、とても不安定になるのではないのかと、そしてそれはもしかして、そんな悪いことでもないのではないのかと。


エルスケンは若い頃、パリにほとんど無一文でやってきて。
なけなしの金で最後のパンを買い、川の水で服を洗って。
「さあ、なにをしようか」と呟いたそうですよ、本当かは知らないけど、違ってもその言葉のまんまかどうかというくらい。事実無謀極まりなかった。


愚かでなければ到底出来ないんじゃないかと。
そしてそういう彼が、名を残すような写真集を撮ったんですよね。