『私のこだわり人物伝』折口信夫−古代から来た未来人 第2回「まれびと」の発見

しかしとにかく無理強いだけはいけないと思うんだよ、しのぶちゃん。
(なにを見ながらなにを言っとる。)


というわけで、≪まれびと≫でWiki君を検索してみたもののほとんどまとまった情報が得られず、なんだったか沖縄の神がそんな名前が付いてたよーな気もするけどあれはむしろ折口氏以降なのかという疑問に悩まされています。
神話に関してはネットは平然とデマが流されてるからなー。
Wikipediaの情報の正確性は最初から期待されてませんが。
しかしあれ、一般的な知識よりも下回るってこともないけどね(多数の人間が関ると自然とそういうことに)。


死者の書」が実質愛人だった養子の死で書かれたというのは有名ですな。
しかしやっぱり、てめぇの高弟が嫌がってるのにどうこうってのは人間として許し難い、女に置き換えてみると洒落にならん(しかし多分折口氏て、普通の男なら殴り倒せる)。




じゃ、なくてー。
この回では主に≪まれびと≫の概念が語られてました。


余所から来た神さま、もしくは余所から来た人間のことを神さま扱いするという風潮。異邦人であるがゆえに己らが持ってない技術知識を持っていることもあるでしょーし。
社会構造の上下関係の締め付けがキツい共同体の場合、異邦人の地位が高いということは結構あったりします(一番偉い人間が抱え込むというか)(それもよく考えてみれば「役に立つ」からなんだろうけどね)。


で、どうもこの考え方は師匠の柳田氏にはムカつかれてたみたいっす。


なんでかはわかりません正直、うーん、日本は「単一民族である」という考え方の持ち主だったのかなぁ。でも学者がそんなってちょっと、、、ああでも日本人が単一民族ではなく混血であるというのもわりと最近の風潮だしなぁ。
つーか、そこそこ詳しいので途中経過すっ飛ばして語ってますが。


師匠と共通してるのは「祖霊」に関して。


こっから私が概念を持ち出して語るのは危険なわけですが(異文化交流は齧ってるからともかくも)、ちょっと検索してみたところ祖先を祭るのはわりと自然なことであるけれども、要するにその境い目が曖昧になってくる。
その曖昧さの中から「神」が生まれるのではないか、ということ、かなぁ?
神のために祭りが存在するのか。
もしくは案外、祭りが神という漠然とした存在を作るのか。


どっちにしろわりと、師弟ともに「神」や諸々のそれを概念として捉えてるんだなー、という気がします。いや、民俗学なんだから当然なんですが、信仰というものをすでにあるものとして捉えるんじゃなくてその源泉を探ろうとしてるというか。


学問というのはそういうものなんじゃないの、とも思えるんですが。
海外の民俗学である≪フォークロア≫なんてのは、「今あるもの」から過去を探ってく側面のほうが強いんじゃないかな。
で、まあ実際そっちのデータ的なもののほうが学問としての印象は強いかと。


折口氏の祭を見る態度をメモの有無で語ってた人なんかもそれっぽい。
彼はメモの類を全くせず、じっと座って見ていたようですよ。


しかしなぁ、それってある程度の蓄積がないとちゃんとしたデータとしては成り立たないわけで。新興の日本の民俗学ではちょっと難しかったろうなと。
今ではそういうデータ的な側面もありますね。




その結論としては別れてるわけですが、柳田氏も≪類化性能≫的といえなくもない。
ある意味で、祖霊崇拝というごく自然な発想に落ち着いたのは科学的なのかもしんないけどな、つーか、そういうふうに積み立てて考えていくと、もしかすると折口の≪まれびと≫論をオカルトの一貫として受け取っちゃったのかなぁという気も。


私はなんというか、そういうのが好きなので、余所から人が流れてくる、というパターンの話を結構大量に聞いているわけですが。
下手をするとそれは、折口氏以降かもしれない。
折口氏が感じていたのは「余所から来た存在への態度」であって、その根拠や本体ではなく、それを説明できない彼を超常自然を語るものだと思ってしまったんじゃないのかなと。


けれど師にも拒絶されたその考え方は。
後の世代にわりとそこそこ、まあ共有可能な学問として語るに足るところまで辿りついたんじゃないかと思います(番組内できちんと語られてた気がしない)。しかしぶっちゃけ、ちょっとオカルトめいたところもあったんじゃないかしらしのぶちゃん。


それはこの回だけで思ったことでもないんですが、と第3回に続く。