『美の巨人たち』入江泰吉「斑鳩の里落陽」

とある作品の解釈というのも要は一つの「作品」だなぁ、と思うわけで。
それはこんなぐだぐだのウチみたいなところでも、どんなに軽くても案外と一緒なわけで。そのレベルの高低はもちろんあるわけですけどね。


美の巨人たち』:「斑鳩の里落陽」
奈良市写真美術館所蔵)


さて、夕焼けの色に赤く染まった空と法隆寺と五重の塔に、そこの場所が持つ悲劇を重ね合わせたという解釈は、ありだとは思うけれどまあ疑問がないでもありません。
それこそ作者どのがそう明言したのならば別でしょうが。
夕日の赤って、血の色とは違うものだという気がするのですよ。


ただそれはまあ、血に慣れた女の感慨なのかもしれないので。
そもそもこの写真を撮ったカメラマンも男性だしで、やっぱり同じように感じていたのかもしれませんが。私にとって夕日と血というと、なにかのドラマか映画の中で、夕日の色に染まって血が血ではない、もっと別のオレンジのなにかの物体にしか見えなくなっていたシーンで。どちらかというと「血を覆い隠す」というイメージかもしれません。




けれどまあ、“解釈”を一つの作品とするのならば。


この美しい夕焼けに悲劇を重ねようとしたそれは、別に嫌いではありません。
黄昏なんていう言葉もあるし、それは本当は「誰そ彼(だれそかれ)」、そこにいるのが誰がすらわからない、という意味だったのだというくらい、なんかしら夕日というのは他のものとは違うという印象もある。


そしてこの写真家は。


己が自分の世界を大切にしたのとあまり変わらない風情で、自分の写真を見てそこからまた独自の物語りを引き出すということに目くじらを立てることはないんじゃないかと。そういうふうに、誰かから侵食されることを怖れるほど曖昧な「自己」ではなかったんじゃないのかという気がするのですよ。
いやもちろん想像なんですが。
「待つ」ってのは想像以上に大変なことだって思えるんですよ。


なにも手を加えず、己の理想に合致する場所をひたすら探し回り、そしてその見つけた場所でひたすら己のための瞬間を待ち続ける。
それは一体、どれだけ強いイメージなのかと。
私ならばまあ、適当なところで妥協するかなぁ、と。
てか、焦れてしまうので写真って媒体は選べませんね、いろんなタイプの写真家がいるのでしょうが。尊敬というのならば、時間と真正面から向き合ってる気がするこの人かなぁと、極めて個人的に。




そして、彼が斑鳩という土地を選んだのは確かに。
その場所が持つ時間の重みを感じたかったからだというのが、自然な考え方だという気がしますネ。


いや、時間の重みってなんスかそれというのも同時に思うわけですが。
へれへれ歩いてるだけで地蔵がいたり、通り縋る人がフツーに挨拶してくるようなのってのは雰囲気以前にちょっと違うものなのかな、と思えないでもなく。
なんだか今回の演出はわざとらしいなー、と感じてたんですが、その中学生くらいの子が無理に叔父さんに連れまわされるとゆー展開も悪くなかったのかな、とも。その無理にってところがむしろ。


まあそりゃ、若いとよく意味わかんなくて辛いよな。w
んで、自分も学校で習って知っている法隆寺を見てすっと、背筋が伸びたというのもなかなかに納得の行く話なのかもね。
(ところで密かに「少年」呼びにビビったのは私だけですか;)
(しかし甥の名前を忘れちゃ駄目じゃん。w)




法隆寺聖徳太子が作ったつー寺で。
まあいろんな話があるんですよと。ちょっと陰謀説っぽい側面がないでもないけど、普通なら玄関から真正面に柱は来ねぇよ、というような物理的に「妙」な部分もあったりしたりでね。まあ長くなるので書きませんが(詳しくナイ)。


実際、悲劇の場所で。
でもって、彼の子孫というのは彼の子ども時点で全滅させられてるわけですよ。
名前だけが残り、天皇になったこともない、間違いなく最も有名な「太子」。
(次の天皇という意味ですな、今も皇太子って言いますが。)


時間ってのは写真に閉じ込められるんでしょうか。
今見比べて、知識もそれなりにあって、というだけじゃなくてもしかしてもっとずっと時間が経って、同じ認識を共有することが出来なくなっても。
それでも写真って空気を伝えるんでしょうかね。
そもそも聖徳太子の時代からもう千年以上時間が過ぎてるんだしなぁ、今も。