『美の巨人たち』鴨居玲「1982年 私」

美男子だったんだそうですよ、てかまあ確かにそうですが。
好みよりちょっと濃すぎるっていうかぁ(誰も聞いてないっス)。


美の巨人たち』:「1982年 私」
(石川県立美術館所蔵)


ところでこの回のモチーフの双子が可愛いっすね。なんで双子なのかというと、、、鴨居氏の中にいた二人の「彼」の対比なのかなぁ。それにしちゃよく似ててぺったりでしたけど(可愛いからいいの)。まあ当人たちは同じ服着たいわけじゃない、同じメイクはしないって言ってるんですけどー(でも動きも似てるんだもん)。


なんかこう無頼っぽい人だったみたいですよ。


無頼っぽいというのかな?
いや、最期は病死だったんだっけか、自殺だったんでしたっけか。なんでそんな単純なところも覚えていないかというと、どの道自滅というのは変わらなさそうだったので。しかし私には「彼」がなにを嘆いているのだかよくわからない。




醜い者を愛していたのか、そうでもなかったのか。
なんでしたっけ、スペインのどこぞの片田舎に行って、そこの醜い、、、って失礼だな!(私がだ、こりゃ)ご老人たちを絵になさってたそーですよ。そこにいる限り絵のモチーフに困ることはないという居心地の良さに耐え切られなくなってまた放浪っつー。なに言ってんじゃコラ。


道化とか路上生活者さんとかもよく描いてたんでしたっけね?


まあなんつーか、たかだか30分番組で駆け足で付き合うのには良い感じに濃い密度の人だとは思いますが正直。実際に彼と知り合いだったりすると、「なにやってんだかなぁ」という気がしてなりませぬ。
だってなんだかんだと絵で食っていけるわけですし。
絵画のモチーフすらも破壊的ではないでしょう、彼にとってというだけで。
もしかしたら自虐ではあるのかもしれないけれど、「醜い物を好んで描く」というのは時に建設的ですらあるじゃないですか。


なんで死ぬほどに思いつめたのかも、そう捉えなおすとわからない。
芸術家の悩みってやつなのかなー、というか、この回には周囲の評価というものがさっぱりぽんと存在していないわけなんですよね。「された/されない」なんてレベルじゃなくて、どんなふうに周囲が考えていたのか身近な人ですらほとんどない。
そして実際、彼自身どうでも良かったのかもしれないとも思えなくもない。




一つめが「人間を描きたい」。
二つめが「もうお終いにしたい」。
(上記リンクの公式ページよりの抜粋。)


じゃあ描けばいいじゃんよ、と思うのは実際にはその技術がない人間の思ってる気楽な野次でしかないのか。描くのに極度の集中力と緊張感がなきゃ描けず、アルコールの力を借りてまで描いていたっつーんですけど。
じゃあ止めりゃいいじゃんよ、と思うのは気楽(ry


「絵を描くこと」の意味が私にはよくわかっていないということなのかもしれません、私はこうやって文字として打ち出すわけですけれども、それこそ破棄された大量の文章と誰にも見せる予定のない日記もどき(でも文章の態を成していない)なんかも書き込んでいるわけですけれども。
それを辛いと思ってるわけではないのですよね、止められないだけで。
つまり私は幸せな部類なんでしょうかネ。
まあ、大抵の人はちょっと(金銭とかw)辛いけど、楽しいから止められないんだよーん、みたいなことを抱えてると思うんですけど、特に現代人は時間あるし。




表題の絵は、今まで描き続けてきた醜い者らに囲まれ。
んで真ん中に自分がぽつん、と絵筆も持たずに「描けない」と呆然としてるわけですが、それはなんだ、描きたいものがあるからそれを絵にしているというわけではないということか。絵の生産そのものが目的なのか。
というのにはモチーフがちょっと違うような気がするし。


なにより絵を「残す」ことを意識してたとはあんまり思えない。


というか、あまりにも他人が人生の中にいなさすぎるというか。そりゃあ描いているわけですけど、会話してたんかいなって気すらする。見下してるよーな感じもまた皆無なんですが、っていうか他人を他人としてじゃなくて、どっかしら自分の写し鏡みたいに捉えてたんじゃないかしらと。
どうにもこうにも生き辛かったんでしょうが。
それがどうしてなのかとかはよくわからない、当人にもそうだったんでしょうか。
彼にも自分のことはよくわからなかったんでしょうか、わかりにくくて。