『美の巨人たち』フランシスコ・デ・スルバラン「聖ウーゴと食卓の奇跡」

Wikipediaフランシスコ・デ・スルバラン


時折この番組の演出が鼻に付くことはありますねぇ。
梟と双子(次回)は絶賛してもいいと思うものの、なんとなく納得が行かないというか。「闇」と「光」の対話で構成された今回はあまり好きになれない。


正直、なに言ってんだかわからないんですよ。


抽象的な現象が観念を語るってのはさあ、バランスとして行きすぎだと思う。
それでも華やかで持て囃されたのだという、同時代の画家との比較の時にはよかったんですがね。でもそれってなんとなく失礼じゃね?
「光」とされる画家に。
「闇」とされる画家って、そちらがこの回の主役であるからまだしも、扱う対象との比較になにかを闇扱いしてしまうとちょっと問題じゃないですかやっぱり。


しかも主に神学系のとこに収めてたって人だしね。
闇もなにもねーわな、光の名にも相応しい。


つーか、炎だよな、対比するのならば、炎と闇は会話しないのかもしれないけども(しかしそれを言うのならば光と闇も会話しないだろけどさ)。
そしてスルさんも闇っつーか、うん、あれだな。
ちょっと狭い日当たりのよくない部屋だな(対比になってねぇ)。




要するに真面目な人だったようです。


画面の隅から隅まで、たとえどんな細かい物に至っても精密に描き込むもので、絵のどの場所を切り取っても一つの絵として成立するっちゅー言い草が面白かったです(言い草て)。てかさあ、宗教画もそうだけどなんかバランス違うんだよね。
違うっちゅーか、「変」と言おうと思ったんだけど。
よく考えたら私が慣れてないだけなんですけども。


ただ、慣れている人は現代日本においてはあまり多くないんじゃないかと思います、Wiki君にも載ってる≪聖ウーゴと食卓の奇跡≫ってなにを描いたものかがわからない。全面が丁寧といえば実際にそうなんだけども。
華がないっちゅーか、どこを見ればいいのかわからない。;


そして挙げ句の果てに、そのモチーフとなった伝説を聞いてもなんのことだかさっぱりぽんとわかりませぬ。肉を食うか食わないかを迷っていたら修道士たちが眠りついたがどーとか、小僧さんが司祭さん(だっけぇ?)を呼んできたら目が覚めたとか。
いや、なんかその間何週間単位で時間たってたらしーですが。
奇跡っちゃあ奇跡だけど、意図がわかんねぇよな、ねぇ神?(呼び捨て)


――これ以降、肉食を諌めることとなりましたとさ(ちょう大雑把)。


ってええ?! 肉食が駄目だから迷ってたんじゃないのかよ。いや、それなら戒律を破るなりなんなりで気持ちはわからんでもないのだが。そういうことじゃないらしいっていうか、だったらなんで迷っていたのかの説明がありませぬ。
してたのかもしれないけど、少なくとも宗教がない人間にはわからん。
(知識はないでもないですが、歴史が主なんス私。)




といった感じに、どっかぼやけてるんですが、むしろ本気でモチーフ一個だけでじっくり描き込んだほうが良かったんじゃないだろうか? 静物画としちゃかなりのものですよ、実力も誰が見てもわかるレベルだし、根気なんか言うまでもなくありそうだし。
まあ、宗教画はもともとなんか意図が違うらしいんだけどね。


快を与えちゃなんねぇってのも聞いたことがあるけど、当て嵌まるかな?
いや、時代や立場によっていろいろ違いがあるもんでね。確か東方正教会なんてイコンのせいで分裂したって言われてるんじゃなかったっけか。
イコンってのもなんか妙な印象を与える宗教画ですだ。
価値の如何ってのはそこからあまり遠く離れてしまうとわからない。


ああほら、なんだっけか。




Wiki君の下のほうにあるモチーフ一点ものの中の。
番組内でも取り上げられていた生け贄の羊さんの絵。
名前も知られておらず、けれど人々が足を止めるというそういう(小品は評価が落ちたりするんですけどね、サイズ大きくて高評価のほうがいいらしい)羊。


ああこりゃ、「犠牲」だなと誰でも思いますよね。
意味とかあるのかわかんないけどね、そうだよね、これ。
だってなあ、これどう見てもそうじゃん、下手すると動物でも視覚さえちゃんと備わっていたらなんとなくわかりそうじゃん。
評価の対象じゃないらしいんだけどさ。
番組の一枚からも外れたんだけどさぁ、番組も見せたかったのこれだよね。
まあ、いいんじゃね、それで。