『美の巨人たち』フリードリヒ「雲海の上の旅人」

梟がラブリーということで全ての感想を締めたいと思います。
(だからそれ、思い切り良く脇ネタ。)


美の巨人たち』:「雲海の上の旅人」
(ドイツ・フォルクヴァング美術館所蔵)


いっやー、こういう小ネタが入るのって楽しいっすね。ww
森や自然の中で生涯スケッチを続けたのだという、カスパー・ダーヴィット・フリードリヒを見守っていたのだという梟の視点で番組は進みます。
まあ、細かいことをいえば梟は夜行性で。
おまけに人間の生涯を見守れるほどの寿命もないわけですが、だからこそ逆に、フリードリヒさんの最晩年に描いた作品の中に、「彼」の姿を確かに見た時に、ちょっと「おお」と思ってしまいましたよ。そーか、その絵を見て彼をナレーションにしようと思ったのか。
素敵なセンスだな。w




宗教画が神聖であるとされていて。


風景画が人物画よりも一段劣るものだとされていたのだという時代、風景画でもって宗教画を描いたフリさん(なにその略し方)の行動は、センセーショナルなものだったらしいですよ。わ、わからーん。w
私の感覚だと(多分世代としては一般的)人物画のほうがキワモノっつーか。
いや、別に人物画のほーが地位が低いとまで思ってないけど、風景画のほーが題材として無難だという気はしてますね。まあむしろ、芸術としての絵画全体に縁がそれほどあるわけではない世代だというだけのことかもしれません。


あ、いや、水墨画のことが頭にあるから違和感があるのか。
(どこが一般的感覚なのかしら...orz)


初っ端から出てくる絵の風景は霧にぼやけて。
人物は後姿が大抵、タイトルもなければサインもない。


しかしドイツってのはなんでなのか霧が多く、もともと実際にそんな風景なのだそうですよ。ああ、そーか、ならしょうがないよなー。
梟に見守られて、日がな一日スケッチ三昧。
ちょうど上で書いた、水墨画もそうらしいんですが、彼が描いていたのは現実の風景ではあるものの、その配置は世界のどこにもない。己の好みのパーツを組み合わせて構成し直されたそんな風景なのだそうです。


それは当時の感覚としてはどうだったんでしょうかね?
(むしろ現代のほうがあんまりないことかなぁ、「写真みたいな」風景画ってわりと褒め言葉だもんね)(どーかと思うって人も結構おられますが。)
宗教画の人物にしても、過去の光景の再現図にしてもなんだかんだと想像するしかないだろーから、そっちにはあんまり非難なかったのかしら。


(ところで例として出てた武陵図は珍しくも現実の風景だったんじゃなかったっけw)
(中国人が理想とした風景が現実にあるよー!)(by『世界遺産』よりw)




彼、時代に逆らおうとしたというよりは、彼にとって風景画がしっくりきたというだけのことなんじゃないかなー、という気がします。
ドイツの思想主義? 哲学? ニーチェやらなんやらの名前が出てきてましたけど、けど時代の説明ってだけで特に彼に絡んでなかったしな。なんだか、フリードリヒさんの「それ」は生まれつき? いや違うか、もうちょっと根深いもののような気もします。


なんでも、少年の頃、彼が溺れたのを助けようとしたお兄ちゃんが、彼のために死んじゃったんだとか。
でもそのことを語るってんでもないし。
正直、絵に暗さが漂っているかとゆーとそんなことはないようにも思います、陰影がどちらに傾いているかと確かに少し暗めかもしれないけど、その分光も淡くてなんだか優しい雰囲気です。影もそれ以上は暗くなりようがないというか。
絵画の中の、いつも後ろを向いていたっていう人々も、彼が人を拒絶しているというよりは、眺めることで遠巻きながらも関っているように思うし。


だから彼が若い娘さんと結婚したという時も、なんとなく納得するものがありました。
梟クンは無茶苦茶驚いてましたな。w


光が少しだけ増した絵の中で、でもやっぱり窓辺を向いて背を向けているお嫁さん。幸せと表現されていましたけれど、でもそれは、それまでの絵の中にも含まれていたものではなかったのかなぁ。
それはもちろん幸せが増えたんだとは思うけど。


「木や雲と一体になりたいんだ」と言って絵を描き続けていたというのですけれども、だったら誰にでもわかる絵にしなくても別にいい。誰かに無理に合わせる気はなかったかもしれません、時代が彼に合ってなかったら名も残らなかったかもしれない。
けれど、別にそれだけではなかったんじゃないのかなぁと。