『この人この世界』ギョッとする江戸の絵画・#4 絵にしか描けない美しさ−伊藤若冲

Wikipedia伊藤若冲


あー、Wiki君に絵が一枚もない。
ここの画像の管理ってどうなってるんでしょうね、確か画像ってある程度以下の大きさだったら大丈夫とか聞いたことがあるような気がするんですが、肖像権でピクセル単位の話だからちょっと該当しないかな(電子ペットの部屋に画像を張るとかいう話)。
下手すると著作権がどうとか、、、?
いやさすがに江戸時代だしな、単に画像を上げる情熱が足りない、と思ったけどあれですよねぇ、お墓の写真があるんだしなぁ。
うーむ、よくわかんない。


まあそれはともかくとして。


これは「見ただけでわかる」系の絵師さんではないのかと思うんですよね、いや、天才に対してもそういうふうに言いますけど、なんていうのかなー、なにが描きたい人なのかがちょっとでも説明聞けば一目瞭然というか。
着物の柄にしたい絵というか。
どう見てもリアリティじゃねぇよなこりゃというか。




この人は、テレビ東京の『なんでも鑑定団』でも何度か見たことがありますね、まあだいたいは偽物でしたけども、ガンつけしてる鶏はちょっと忘れ難いよなー。ww
もうマジ、奇麗な鶏なんですけど形は美しいんですけど、というか露骨に素晴らしい技術なんですけども目付きがなんか怒ってる?! って感じなんスよ。表情ありすぎ。


てか、この番組をやってた辻惟雄さんの書いた「奇想の系譜」(1970年出版)にて再評価されたってWiki君にも書いてあらぁ、あー、本気でこの人の活動によって注目を浴びた人なんですね。
まあ、もともといいところに保管してあるから、不遇って感じはしないですけどね。
でも知る人ぞ知るってよりももうちょっと面白いよなぁ。




いや、なんか妙に抽象的な言い方になっちゃってますが。
着物にプリントされた柄みたいな絵なんですよ、鱗の一枚一枚、鳥の羽の細かい筋に至るまで執拗に描きこんであって、やっぱり生物が好きだったみたいです。そして構図もなんかすでに柄っぽいというか、等間隔に美しく並んでるというか。


複数の動物が描かれた作品だと大きさの対比が変っちゅーか。
興味があるものが大きくて、隙間に本来でっけぇ動物が押し込んであるというか、それがなんか皆揃って妙に穏やかな表情を浮かべているというかな。


母親と話しながら見てたんですが、こういうふうに見えてたのかなぁと。


いや、見たことのない動物は(最後の襖絵っス)ともかく、鶏に睨まれたことがあるような気がしていたのかもしれないし、鯉が体を捻らせてた一瞬なのかもしれないし、それをずらずらっと並べてしまうとそりゃあ不思議なありえない図にはなりますが。
つーか、鶏は実際睨んでくることありますわな。w
描き込まれすぎた、どこもかしこもきらきらした羽も鱗も、明るい光に透けた状態であるのならばそんなふうに見えることはあると思うのですよ。全身にくまなく光が当たる状態ってのはやっぱりないわけですけども。


写真に撮ることは絶対に不可能で。
そして「絵にしか描けない」のですけれどそれが全く現実と乖離してるかっていうと、もしかしたらそうでないのかもしれない。絵にしか興味がない人には、一瞬を逃さない視界とそれを再構成する記憶力があるのかもしれない。
彼にとっては自然であったとしても不思議ではないんじゃないかなと。




一生をわりと大店の嫡男として生きて。
生活のために絵を描いたこともないし、結婚にすらろくに興味がなかったようで生涯を独身で送ったようです。その余った時間が全て、あの絵の緻密さの中に注ぎ込まれたんじゃないかと納得出来てしまうんですよね。
そのくらいの緻密さですよ。


自分の理想とする山や水を切り貼りして、理想の構図、風景を作るというのが水墨画なのだと聞くのですが(つい最近いろいろ見てる中でですけどなw)。
遠くて見れなくていやーん、みたいな。


いやいやいや、想像ですが若冲さんは動物のほうが試行錯誤できていいしー、みたいな方向性で風景画よりも好んだというのはありえないことでもないかなと。
つーか、山描き込んでもあんまし奇麗じゃないじゃん。
むしろ適当にすかすかのほうが味あっていいよな。


そーして、ひたすら絵のことだけ考えて一生生きて。
百年もたってから仏教に結び付けられたりしてな。
いや、生きてるってことはそういうものだと思うんですよ、ところどころ。あんまり一つのことにのめり込むってことは宗教に似てる可能性ってあると思うんですよ。