『私のこだわり人物伝』円谷英二−特撮の神様 第3回、ウルトラのおやじさん

様々なクリエイターが集まって、様々なことをやっていた。
そして彼らに一つの筋を与えていたのが円谷英二氏。


この回で唐沢さんが語っていたのは要するにそれだけなんじゃないかな。


実相寺氏の「ウルトラマン誕生」のほーで読んだエピソードですが、血を流せ、ということを番組のプロデューサーに要求された時に、ぎりぎりまで逆らい、それが叶わなかった時に薄い緑の奇麗な血を流したのだということがあったのだそうです。
写実を、テーマ性を軽んじていたってわけではなく。
彼の『ウルトラマン』というものの姿勢がそうだった。
子どもには美しいものだけを与える、というのが彼の主義だったようです。


それって今聞くとちょっと生温いもののよーな気がする。
いや、“今”ならば違うのかもしれません、現代、リアリズムの名のもとになんかフィクションが使命を背負っていたかのように語られていた時代には。んで、私はあんまりその手の作品が好きじゃないんですよ。
いかにも好きそう、と思われるのは正直仕方ないんですけど。
だったら学問のほーがいいじゃん、研究書読めばいいよ。
たかが作り事で、それを本当に越えることが出来るわけがないじゃん?


要するに問題にされるのは馴染みやすさと絶対数なのかもしれないのなら、そういうことをのたまう人たちの言い分は正しいのかもしれない。でもねぇ、文章の読みやすささえ確保されてたらぶっつけで、そうでなくても関連資料を辿ってって最近論文でも読むことの出来る「私」にはそんなものなんの意味がないんですよ。
興味があるかないかくらいの差しかないわけですよ。
「私」は多いわけではないけれどそう少ないわけでもない。


そういう人間が、フィクションにリアリティやテーマ性を主として求めるわけがない。
私が嬉々として「下らない」「低俗な」番組を見ている時にそんなものを重視していたら、そんなのは笑い話にもならないわけですよ。




「私」たちが馬鹿に出来ないのはむしろ円谷氏ではないのかと思うのです。
誰に、なんのために与えるのかということを自覚して、一線を守ろうとし続けたという人。出来たのは怪獣プロレスでしょうよ、ドラマ部分なんてどう考えても10分より少し多いくらいにしかならない。玩具は子どもに喜ばれるでしょう。


だからってなんで恥じ入らなくてはならないのか。
だったら物語りなんて捨ててしまえばいいだけなんですよね、労働だけして必要な計算だけして、せいぜい満たされることのない代替の性商品くらいをあてがっておけばいい。そういうふうに暮らすことが悪いと言ってるわけじゃない。
でも、「幼稚な話」という言葉を使う人たちはその人より上質な生活をしているとやっぱり信じているよーな気もする。


てゆか、そーいうどっか能天気な幸せにも見える人の下に。


なんだか名前が知れて、後世まで作品が残っている人たちはどうしてなのか皆、一筋縄ではいかない人たちばかり。
問題作と言われる作品を時折排出し。
番組と袂を別っていった脚本家、酒を浴びるように呑んで自滅していった沖縄人、異色の名がつきまとい続ける監督。でもそれを『ウルトラマン』という覆いに包んでしまうと多彩さというどことなく穏当な代物になり。
シリーズは今も初期の関係者すら関り生きています。


芸術とは逆ベクトルなのかもしれないそれは、幸せなことなのではないかと思うのです。単独で素晴らしいかどうかは私にはあんまり関係がない。
それをもって馬鹿にする人がいるのなら全く妥当なことだと思います。
少なくとも、そういう偏見と戦いたいのなら私は誰かに任せます。




でも、作り手っていうより、クリエイターっていうより、なんかわけのわからないエネルギーをただ余らせた若者たちが集える場所は、もしかしたら他にもあったかもしれないけど、そーいう夢の場所でしかありえなかったよーな気もする。
それぞれがてんでばらばらの。
その中ですら生き残れない人もいるくらいの。


んで、「それ」はシンプルな美しい正義の物語りの多彩さの一つにされてしまった。


やっぱり、芸術とは全く違うものなんだと思うんですよねー。
メトロン星人が四畳半に座っていたよ! つったって知らん人にはなんじゃそれ、でしかないし、なんの悪さもしない、ただ子どもたちの描いた落書きでしかない怪獣や、雪女をモチーフにした怪獣との挿話ってのも。
別にそれ単独で捉えても異色でも先鋭的でもないでしょう。


でもそれ全部が寄り集まってしれっとしてられたのは、怪獣プロレスかそれ同等、もっと「下らない」媒体でなきゃありえないって気はするんですよ。


しかしところでウルトラの母は可愛いですね!