「ゴジラの来る夜に」

ゴジラが来る夜に 「思考をせまる怪獣」の現代史 (集英社文庫)

ゴジラが来る夜に 「思考をせまる怪獣」の現代史 (集英社文庫)

密林.com

“怪獣が現れた、怪獣を殺せ”ではなく。
――怪獣が現れた、人間が変われ、と思うのは多分人間ではない。


というフレーズを見た時には、さすがにぎょっとしましたねぇ(僕のことか)(いかにもだよな)、あとはそーだなぁ、「ゴジラが来る夜に」なんていう得体の知れない本を開いている貴方も、と言われた時も。


けれど基本的に、私はこの本の著者さんが好きではないです。
あと、この人はものすごい勢いでウルトラマンが嫌いです。
別にだから嫌いってんじゃないけども、まあひょっしたら似たよーなもん。
ウルトラマン研究の本が他の国でも翻訳されていることをもってして、なんか帝国主義がどーたらに近いところまでのたまってました、ぶっちゃそこは正気に返れ。;




ただ、「私たちは高度経済成長期から来たのだ」という言い方は、客観的に見ても誰にとっても受け入れやすいのではないでしょうか。それは表現の問題であって、氷河期から来たとでも地球創成期から来たでも猿と進化が分かれた時代から来たと言っても別にいいんだけれども(ちょっと待ってなんで人類以前ばっかり)(人間じゃないって言われちゃったし→♪)、それでも私たちの根本は≪高度経済成長期≫にあるのだとも思うのです。
そのことを自覚していよーといまいとね。


そしてゴジラは、正しくその時代の申し子だというのですが。


んでもってー、ゴジラは好きなんだけど、ゴジラ映画は別に好きじゃない、、、という人なんだそうですよ実は、著者さんは。そういう人も少なくはないだろー、とおっしゃってるんですけども、言われてみればそんな気はしますな。


てゆか、前にも円谷英二氏を扱ったNHKの番組に絡めても書いたけど、ゴジラってなんでゴジラなのかよーわからんのですよ。そいで、作った人らも、実際にデザインした人らも、「どこから来たのか」完全にはわかんないと一番のロマンじゃねぇのかなー、とちょぴっとマジに思うんですよ。
そういうものに宿るものってある気がするじゃないですか。
なんていうのかなー、そもそも「ゴジラ」的なものって口に出して言うのが憚られるよーな気がするじゃないですかやっぱり。破壊が好きなのよーーー! と叫ぶ人がいないとは言わないけど、少数派じゃんやっぱり。
てか多数派になるとなんだかんだと社会ヤバいじゃん。




でもさー、なんていうか。ホラ。
抑圧されていて、それを表すことが「許されてない」からこそ逆に、それを表に出すことを特権的って勘違いしちゃうことあるわけじゃないですか。


そんなんじゃなくて、本当にままならぬものを抱えているんだよ。
ということを説きすぎるがあまり、ほらほら、こいつは偽物の「ゴジラ」、これも偽物これも駄目あれも駄目、本物ってのはねー! と。
極めてあまりにも人間らしすぎる行動に至っていたのがさすがに残念です。


つーかこの人は自分のことを「怪獣」だと思っていて。
人間に受け入れられないということを延々と綴っているのだというふうに断じてしまうことも出来なくはないんですが、でもけしてそうは言わない。「私は怪獣だ」とは一言も一度も書いていない。
人間ではない、という言葉だって自分に直接向けたものではない。


そこが彼にとっての本当の「怪獣」の部分なのかもなぁ、とは思うのですよ。




怪獣ってのは結局トータルで、人との差異にすぎないんだろうし。
多かれ少なかれ、どう足掻いても人間は怪獣の部分を抱えているものなんでしょうが、けれどねぇ、怪獣成分100%の人間ってのもまああんまりいないよなぁと。


つーかさぁ、「怪獣」が人に忌み嫌われる、「人間」に絶対に受け入れられるわけがないという観点から本を作ってるところはあんまし好きじゃないんですよ、やっぱり。
だって誰にだって多かれ少なかれあるんなら、そんなわけにもいかないじゃん。


ゴジラだって軟化してったし、ウルトラマンだって怪獣でしょうありゃ、なんか洗脳でもされて無理矢理に受け入れさせられてるとでも思ってんですかい。
許されないはずの「ゴジラ」まで作りあげたっつー人間の集合意識が。
なんでそこにきて急に矮小化されて評価されるんですか一体。
フツーにいたら、ゴジラウルトラマンも迷惑にすぎなくて、だから役に立つよーに努力してんじゃないですか。
「そこ」が多分もっとも憎らしいとこなんでしょうが。努力が。


ゴジラが死にたくないからって努力するなんてこと認めたくないのならば、それはやっぱり怪獣ではないんじゃないでしょーか。
怪獣に憧れる、怪獣を殺してしまった人なんじゃないのですか。