『私のこだわり人物伝』円谷英二−特撮の神様 第1回、ゴジラは日本人である

――ゴジラは摺り足なんすよ!(実話)


というところが結局一番印象に残りました、なによりです。
(結論はシンプルであればあるほど素敵だと思うの。)
とりあえずなにかっちゅーと、当時すでにアメリカで『キングコング』があったそーなんスよ。これが“コマ撮り”という手法を使っています、造型を一コマずつ撮っていくとゆー、まあアニメーションの一種っすね。


ゴジラ』は日本で始めての特撮映画だそーですが。
id:gmsさん、特撮年表


んでね、作ってたら納期が全然足りなくて。
しゃあねぇってんでゴジラの中に人が入りましたとさ、これは「着ぐるみ」と呼ばれます、これ以前にあったかどーか知りません(なくてもあっても不思議はないね)、んでもってだからゴジラの動きは人間のものなんですよ。


そこが良かったんじゃねぇのかなぁ、というのが唐沢俊一氏の言。
いっやあ、技術としてはやっぱり劣るわけで(事実上な、そこは別に否定せんでもいいんじゃないかと思うよ)、海外通の特撮マニアたちは「日本の特撮はまだまだ幼児期だねっ」とかはしゃいでたよーですよ。
唐沢さんもねー、若い頃はやっぱりそんなこと言っちゃうのよ。
みたいなことを言ってましたよ、言うよねー。うんうん。




けども、なんか画面の向こうに入れ込んでしまう。
これ、ちょっと違うんですけど言ってることわかんないでもないなー、ゴジラってそのコンセプトじゃなくてその生い立ちじゃなくて(そこはさすがに遠いんだ)、なんか我々に近い存在だっていうのか実感というのかなぁ、なんとなく「感じる」。
翌年だったかの次作ですでにコミカルな動きがあったとか。
世間で怪獣同士のちゃんちゃんばらばらを(すでになんか表現変)、夫婦喧嘩に例えてた歌が流布してたって言いますしねぇ(ASAさん情報)。


それがなんでなのかって考えた時にー。


案外欠点だと思ってた、中に人の入った着ぐるみの動きだったんじゃねぇのかと。
この映画時点ではまあともかくとして、その後も円谷さんたちはなんか着ぐるみばっかし撮ってたみたいですね、つーかなぁ、ぶっちゃけ、コマ撮りでなくて当たったのにコマ撮りに戻す阿呆はおらんわな(身も蓋もないなぁ)。
だって着ぐるみのほうが安いじゃんっ。


というわけで摺り足なわけですよ。
ちなみに、ゴジラの中の人は能楽の動きを参考にしたそーです。




つぅか途中で挿入されていましたのが、チェコの人形芝居。
「日本に輸出すんのは楽だけど、アメリカに輸出すんのは面倒いね」とのことですよ、あっちの人らは“喋る”っつー時に口がぱくぱく動かないと気が済まないのですと。しかし日本には人形浄瑠璃はあるし能楽もありますな。
(基本的に皆、能面を被ってるんですよ、例外は少年と老人)
(本当に一部の人のみで「直面(ひためん)」という名前付いてます。)


能面の口が動くのは超勘弁して欲しいな...lllorz
能は面の傾きと仕草とで感情を表現するっつーか。
60代のおじーちゃんでも人外の絶世の美女を演じられるというか。


わりと、見てる側との共犯関係、共通思念があるというか、上手く伝わるかどーかわかんないんですが、「そういうモン」だと認識してしまえばこっちたのもんだ! というか。
ある意味ではお約束満載で、それを覚えなきゃなんない世界でもあるわけです。




んでもってもしかしたら、「着ぐるみのゴジラ」はそーいう。
唐沢さんいわく、リアリティとは逆の側面。


私たちの想像力で隙間を補うとゆーか、語られてない部分をこちらが勝手に作ってしまうというか、足の裏をぱたぱた見せちゃなんないのよ、とゴジラの中の人は語っていたとゆーのですが、そーするとなんか動きが軽く見えてしまうからなのだそーで。
その辺が能楽の動きってぇことなんですが。


私もつい最近(本当に半年くらいです)、見ましたよ『ゴジラ』。
街の中をゴジラがのしーんのしーんと歩いてました。
んで煉瓦とかの高層建築ばっかし壊してたとゆーか、古いものはあんましターゲットになんなかったんですよ。


皆そんなふーに踏み潰してしまいたかったんでしょーかネ。
それを、映画で描くというのは逆に、この世でもっとも健全な気がします。
そのために、人の動きは必要だったんでしょーか。