NEWS23、ウルトラマンが見た日本〜ヒーローは何処に〜

カテゴリ新設ー。
妖(あやかし)と同じであんま大した意味はないですよ、あっちからも移動してくるかもしんないですが、フィクション系はこっちに来るかも。


まあ、とりあえず回線を取られてますのでローカルで打ってんですが。


概ね良かったんじゃないのかなぁ。
いざって時は≪メディアに利用されるヒーロー≫というタイトルにしよーかとすら思ってたんですが、市川森一さん素敵だ♥
小泉首相をどう思いますか」
「他のヒーローの真似しちゃ駄目ですよねっ」(エルビスさんのカッコしたとか)
「怪獣ってのはアメリカとイラクのような、、、」
「宗教と正義は違うものだと思います、、、いや、そうであって欲しいですねぇ」みたいな感じに。逃げやがっター。w


筑紫哲也さんがどうも、フィクションの中から自分(の思想)を利する言葉を引き出したいらしいのに、市川さんはそれに反発するでなく、鮮やかにフィクションの中に押し戻してしまうというかねー。
ここで、「いや、違いますよ!」とか言ってたら、コーナーの後半で柔らかい顔してる筑紫さんってのはなかったような気がする。あの顔はなんかよろしい。毒気抜かれてしまったみたいな感じでね。あはは。


メビウスに感じてた空気とちょっと似てる気がするネ。)
(市川さんは、『ウルトラマンA』だかを最後にウルトラマンに関ってなかったって聞いてたんで、出てきて嬉しかったー。)
(全然別口でちょっと好きなんス。)




あと、妙に早口だった男性アナウンサーはマジだろうなとか。
ウルトラマンって用語を一切使わんと懸命に援護射撃。ww)
「ウルトラ先生」の話も概ね良かったなー、て気もする、これもかなり懸念されてたけどさ、私は別にいい。
君らはこう思ってた、君らはこう信じてた、違うこともある。
さあ考えよう、て先生はいいんじゃなかろうか。
そのきっかけがなんであっても別にいいよね。


鬼の話の挿入。
ウルトラマンの生みの親、金城さんが沖縄の人だったってこと。


フィクションの中にある、差別への怨嗟、市川さんが語る「怪獣はウルトラマンがやっつけたよ、でも怪獣が現れた原因はそのままだ、さあどうしよう」という言葉も私は嫌いじゃない。どうするべきって言わないから。
ゴジラもそうなんだけど。
戦争への恐怖として生み出されて、それでその翌年には茶化してしまうようなぶっとい神経が好き。差別への怨嗟として生み出されたというのに、それが一つの「生き物」として生み出されてしまうとどこからかそれを愛する少年が出てくる。
ウルトラマンより、怪獣が好きな子どもってどこにでもいる。
どこまで図々しいんだか知れやしない。w


や、いや、「差別への怨嗟」をもしかしてもしかしたら正しい形で読み取って、無意識に、その上で愛しているのかもしれない。
そこまではいかなくても、抑圧なら誰でも少しは知ってるだろうし。




フィクションの中の正義ってのは、多分現実では理想。
市川さんの言葉は、なんかその境をゆらゆらと、現実の問題を突きつけてくるところから逃げてった。なんらか言及すれば、なにかを断罪しなくてはならないからなんじゃないのかと私は思う。
「許さなきゃならない」とそして言う。


「今の時代にヒーローって言ったら、正義って言ったら、、、胡散臭いですよね」みたいに現行の脚本家さんが言う。「守れたらいいね」「一生懸命生きていれば皆ヒーロー!」とか言い切ってしまうおばちゃんなんかもいる。
「ヒーローはいないよ」「昔はいたねー」と言う人もいる。


早口のアナウンサーは「大袈裟ですけども大袈裟ですけども、自分がこうなれたらっていうなにかがあればヒーローで、ヒーローが少しでも多ければ子どもにとっていい社会なんじゃないか」と腕を振り回す。
ヒーローも正義も押し付けられたら胡散臭い。
フィクションが現実を描くのはいいけれど、それを口にしちゃあルール違反だと私は思ってる、それを感じ取るのはいいけれど、作った人間がそんなことを言っちゃあいけないのではないかと私は思う。
どんなに勘違いされていたのだとしても。
観ている、観客を、どこかに、なんらかの解釈や状態に導けると思うようになったら、それはエンターテイナーとしての緩やかな死の始まりなんじゃないかと思っている。


個人的には悪くなかった、まとまりなんかなかった。
でも、筑紫さんも含めて、丸め込まれてしまったところも入れて(そしてどうもスタッフにもかなりマジっぽい人がいた気配がしたりもするんだがw)、まとまりないのが現実だという気もするし。
ウルトラマンには、空想って言い切ってて欲しいよね、にこやかに。
現実の中の「正義」って、あんまり本当の正義じゃない気がするし。
架空の存在じゃないと駄目だよね。