NHK『同時3点ドキュメント』第3回「ふたりの命」

うっぎゃぁ、一人が駄目でもう一人が助かる展開とかだったらどーするんだよ! それって放送出来るのか、とか、大変に心配しましたが。別にそーいう三角形ではないようですね...orz
そこまでシンプルでもない。


とある移植医療が盛んな(小児・多臓器移植)病院に、相次いで入院することになった二人の幼児のが二点。
もう一つの点は、その采配をするコンピュータ機関。


ちゃんとここまでで説明になってるんでしょうか(わかる人には単語でわかるよーな気もするけど)、これは臓器移植の話です。
一人は日本から、サッカーチームの熱心なサポーターだった親父さんが、仲間に呼びかけて募金活動をしてもらえて、渡米費用含めおよそ1億円を集め、家族揃って入院。


もう一人は、アメリカの医療保険に全額負担にて入院。


片方が少々年嵩で体が大きめ、「だから」体のサイズが自分より小さい相手からでも移植が可能、ただし、もう一人の子(年少の子)は症状が進んでいるので点数が高い。国の外からの受け入れというのも、人種もここでは全く考慮のうちに入りません。
そもそも「点数」というのは、移植の順番待ち、のようなもの。




日本には、子どもからの移植を認めない法律があります。
「子どもには自分の意思が認められないので」という文脈で、ちょっと乱暴に書きすぎましたが、己の死後を見据えるのは大人でも難しいのだ、という言い方をしても乱暴と思う人は少ないのではないかなと。


でも、それだと日本にいて助かる可能性はない。
なので、子どもからの臓器移植が可能なアメリカに、日本に限らんと余所の国からも向かうことがあるようです、しかしまあ日本人がすげぇ多い気がせんでもないのですが(経済物理的に)(そして日本人の乱入までは、少々煙たくても認めてやらんでもない、というふうに捉えられてるのではないかなぁ)。


この回には、移植をする側。
もとの臓器の持ち主のことには触れていません、その後のケアめいたことや、「それが金やその他の動機のためであってはならない」という信念には触れられていましたが。
金のためではない。
采配も、誰のための平等なのか、彼らは言わない。




なんていうのか、なんのために、全ての情を廃してどこまでも平等にということを志しているのか、当人さんらにもわからないのではないでしょうか。その後、「移植者の側が謝礼を要求することがあってはならない」のは、何故?
いやもちろん、疑問を投げかけているわけではないです。
聞きたいわけでも微妙にない。


ただ、それはなんていうのかな、理論ではなく、実践の結果の行動理念なのではないのかと思うのです。


手ぇ振り回し、とりあえず始め。
その上で出てきたものに、歯を食いしばって耐えて(ちょっと美化)(このくらいは許してくれ)、その上でその上で、それを教訓として先に進んできた結果なのではないのか。
移植制度の成立も、流れも、動機もほとんど触れられない。
ただ、その姿勢、今の冷酷なまでの判断から、その強さはなんとなくわかる。今が完成形ではないのかもしれないことも薄っすら感じる。
なにかことがあれば、少しゆっくりであっても(今のシステムは妥当だと思いますから)、彼らは変化することを厭わないでしょう。




一人目の子が移植が終わり。
少々点数が低い子のほーにも、移植のチャンスが巡ってきた。


それは位置が近いから(他に条件が合い、他にその子よりも点数が高い、症状の重い子たちは遠方に位置していた)、「その子が失敗しても、また次の子に廻せるチャンスがある」という理由なのだそうです。
(明言はされてませんでしたが、多分、これを念頭に置いて聞けば誰にでもわかります、責めているわけではない。)
(助かる可能性を増やす行為であって、そして、辛い決断でしょうこれは)(その決断を担ってくれる存在を責めるほどには傲岸ではないですよ。)


二人の子どもと。
移植の順番を決めるコンピュータは少し乖離したところに存在している、三つの点で結べるような単純なものではありませんでした。
命を守る、というものもルールの中に縛られていくのだということと。
それを嘆くよりも違う道を選んだという人たちの話なのでないのかと、私はそういう視点で見ることにします。
他の視点もあるでしょう。