#483 エルサレム旧市街とその城壁I(エルサレム(ヨルダン推薦物件))

嘆きの壁≫というのはそもそも何千年も前の神殿跡地で、誰もあれ自体を崩すことはないんだろーかと少し思った。
それでもイスラエル人たちは気にしないんだろうか。
それでもなお、あの地に通い、祈りを捧げるんだろーか。


十字軍よりは、私は彼らのことが理解できる、まだ。
そりゃあ、私も、その軍が実際にどーなったか、結局彼らが契機となって土地からイスラム文化をもらって、ルネサンスへとなったとかそーいうことくらいは知っている。つか、最初からその知識込みで聞いているけれど。
でも、嫌いなものは嫌いなのだ、どうにもならない。
死んだ信仰の形骸のために、なんかのシンボルのために起こされた戦争ってどうしても気持ちが悪くて仕方がない。


けれどまだ、ユダヤ人たちの祈りは理解できる。
彼らの信仰が死んでいるのだとは、どんな敵対者も言わないだろう。
その信仰そのものがなにをもたらすのだとしても、彼らの軸は信仰だ。




この神殿の知識は、私は別に必要としない。
そもそもそんなに長くない、しばらくの間の繁栄を謳歌して、そーして離散してしまってからもう何千年にもなる。彼らが「帰った」というのは、そんなブランクがそもそもある。


ユダヤ人≫たちはもう何千年もこの土地にいない。


キリストさんもここらの土地に、ローマに支配されるユダヤ人として生まれたし。
イスラム教のマホメットさん(ムハンマドというと通っぽいらしーぞ)(さすがにその手のネタでふざけるのは如何なものか)も、結構遠征しまくったせーかなぁ? それとも元から生地が近かったからかよくわからんけど、この土地でなんかメモリアルを刻んだっぽいぞ。
(知ってるんじゃなかったのか)
(何度も聞いたけど何度聞いてもなんのことやらよくわからん。)




私は、イスラム教の祈り方がなんとなく好きで。
ユダヤ教はその在り方がなんか好きだ、『タルムード』とか読んでみたい、複数の時代の聖書の解釈を編集を経ずにぶっ込んだよーな書物で、「ユダヤ人がタルムードを守るよりも、タルムードがユダヤ人を守ることのほうが多い」とまで言わしめた本。
複数の価値観が存在することを、当り前として根本に存在させる宗教。
そもそも彼らは、ユダヤ教とともに生きることをユダヤ人としていて(イスラエル建国以降、事情が少し変わった)、彼らは成長して後に宗教を捨てるのだとしても、聖書を読む、彼らは字を知っているところからそもそもスタートする。


キリスト教の宣教師とか、実は嫌いじゃない。
信仰を持って、医療や実際の物品なんぞを引き連れて物量作戦でそれを伝えようとして土地に乗り込んで行ったり、逆に土地に骨を埋めてしまうよーな彼らとか。それが本当に救いになることを信じられないのならば信仰を勧めないよーな人たちとか。


ユダヤ人の歴史も知っている。
好きな作家の一人がユダヤ人で、彼は信仰を捨てたというのだけれど、自分の歴史を民族の歴史の一部として見ることは当然としていたので彼の本を読んでいたら自然に少しだけれども知ることになった。
ユダヤ人たちって、なんとなく薄っすらそんな民族だという気がする。
口数が多いというか、ちょっと違うか。
どんな悲劇も、己らの犯した罪も、主君の間違いも、全部無造作にひっくるめて伝えていく、それ自体がどんな意味であるか愚かであるか、時代を越えたら別の見方をされることを知っているかのよーに。




嘆きの壁はただの瓦礫だし。
イスラム教建築はいつも美しいけれど、そんなに優れた意匠でもない(古いことは古いそーだ、同じ形式では最古?)。
キリストさんの生まれたのは地域で、彼はな〜んにも残していない。


形の異なる、全く違う祈りを見ていて、なんで彼らのどちらか片方が死ななくてはならないのかどうにもわからなくなって泣いていた。
そーしたら。


――争いよりもずっと長い時間の、異民族の融合した歴史があるのだと。


そんなよーなことをナレーションが言った。
変なタイミングだったからなんだかびっくりした。
そうか、ほんの短い間にすぎないのか、「今」もまたいつか終わるのか。


宗教を伴わないテーマの時に、なんだか宗教に無理矢理押し込んだよーな作り方をしていると気になっていたが、いざ宗教のど真ん中を扱わせると。
彼らが語ったのは、どうもなんだか神というより時間の話のようだったな。