「坂の上の雲(2」司馬遼太郎

新装版 坂の上の雲 (2) (文春文庫)

新装版 坂の上の雲 (2) (文春文庫)

≪密林.com≫


多分、脱落者は日清戦争の章で多く出るのではないかなぁと。


私、戦後教育は、「戦争」を穢れだと思え、というような方向に作用したのではないかと思うんですわね、たとえソレを反対するためにでも口にすることは醜いことである、と。
社会の先生は一人で。


――教科書には載せるが、時間を調整して触れずに済ませ、と言われる。


と、私たちにいろいろなプリントを配っていたのですが、「侵略なぞでなく正しいコトであったのだ」とぶち上げるのとどっちがマシかというと、多分触れないことでしょーがぁ(負けた国が言っていい内容ではない)(てか植民地政策は当時悪ですらないよ;)。
余所の国の「私たちは被害者なのだ! だから加害者を憎んでいい!!」というのとどっちがマシかというと、どっこいどっこいなんじゃねぇのかなぁ?
むしろ己の国だというフィルター無ければ、後者のほうに傾くかも。
完全非当事者の気持ちなんて、所詮私たちにはわかりませんがきっと。




司馬サンのことは私たち、なんとなく「=善」であるのだと思ってると思います。
たまぁにそーいう人がいて、少なくとも「悪」はねぇよなぁというか、嫌いか好きかは置いておいて人間性に関しては疑わなくて済むというか。


でも日清戦争を、あんまり非難してくれてないのですよ。
どころか、淡々としてますけど、面白がってるよーに見えるんですね。
そもそもどっかしら説明が少なくて、基盤部分の概念を、それまではわりと丁寧に砕いて説明して下さっていたというのに、その段に至って「丸ごと与えられた」というか。
日清戦争に関する、ご当人の認識が明記してないんです。
ちょっと単純記録めいたというかネ。




非難ではありません、だって賛美はしていない。
つーか、受け入れがたいのは、こちらの、私だけでなくて多分、戦後世代のほうにちょっと固定観念があるからかもしんないんですよ。


だって当り前ですが、司馬サンが起こした戦争じゃない。


だったら、彼は事実を記すだけです(時に事実ではなくとも)、確かに否定はしてくれてないけど、それは個人の自由の分類だと思うんですよね。
己で戦争を起こすのは悪、と我々は思ってもいいかもしれない。
けれど、それを記述するのは悪? それを肯定しているわけでもないのに、否定しなきゃならないというわけでもないのではないか、単に事実として捉える権利はあると思うのですよ。そもそもそーでないと、きちんと「歴史」が捉えられなくなるのではないかと。




きちんと記述されてない「戦争」を否定するのは。
単に己の感情の垂れ流しではないかと思うのですよネ。


――戦争の醜さを描く。


のではなくて、単に「戦争を否定する人間の感情を描く」とそれは戦争の否定にはなりません。ある程度妥当なのかもしれなくてもヒステリーの分類。状況からして確かに仕方がなくても、数が多くても、それでも人に押し付けていいモンでもない。




ていうかー、むしろ、正岡子規さんが「戦争」にほっこほこ浮かれてるのは、わりと簡単に同調できるのよねー。これはなんつーか単に、しようのない感情。
自分たちが発展出来るかもしんない、というのはねぇ。
強い外敵を排し、己の力でのし上がる、と国単位で。


ソレを「殺し」であるのだと認識したことがないのは、もうなんかある程度しょうがないことのよーな気がするんですよね。だって人間て弱いし、盲目だし。


でもこの人は本当に、引き金を一度でも引き。
それで人が血に染まれば目を覚ましてくれるかもしれないと私は期待してしまう。
(体が弱くて、従軍どころか記者でも無理だったんス)(血ぃ吐いた。;)
殺すことがしゃあないことはあると思ってます。
そして発展が嬉しいのは別に悪いことではない、でも「己らの発展のために血を流すこと」は、その血が誰であっても気が咎めて欲しいのですよ。戦争とはまた別の次元で。




私は、正岡子規さんはそーしてくれるとなんとなく思うんですよね。
けれどなら、戦争をするってこと自体、必ずしも「冷酷な悪魔の所業」なのかな。戦争を起こすのって触れたら穢れる、異常者たちの集団だったりするのかしら。
違うんではないかな。


つか正直、≪日清戦争≫面白かったです。


戦争の勝敗をなにが別けるのかってのは、微妙なんだなぁというか。
そーいうテクニカルな面で言えば紛れもなく「面白い」。
秋山兄弟は今、その真っ只中にいます。まだ実戦には関りませんが。