第三話「柔らかい角」



雪が音を吸うのかな。
それとも単に寒いからなのかな。


冬って音が少ないですよね、あ、でも昼と夜とでも音の量って違うかなぁ。都市だと、光も音もけして完全には途切れないんですけれど。
都会に憧れるって。
夜中になっても「なんかある」。
フツーなら家族だけですごすべきみたいな、特別な日ですら外に人がいる、てだけの意味なんじゃないかと密かに思ってました昔。
ていうか、そーいうだけの憧れだけの子って実際いるよーな気がする。




前話が目の話で。
これは音の話です。


「あ」「うん」てのは、神社入り口にいる鬼とか、狛犬とかのあれですかねぇ。
片方が口を開けていてこちらが「あ」、片方が口を閉じている、これが「うん」。
なんでそう呼ぶかっていうと、まあ実際に発音してみれば考えるまでもないっス、そのまま。最初と終わり、という意味合いだったかなと。
(狐の形したのもあったよーな気がするー、うろ覚え。;)
どっちも蝸牛の形をしているから、口はないんですけれども、その替わりに「あ」は音を食べて、「うん」は「あ」が作った無音を食べる、、、逆でしたっけ?




おー、見事に逆だlllorz


「吽(うん)」は音を食べ。
「阿(あ)」はうんの作った無音を食べる。


うんは、普段は森の音を食べているけれど、雪が深くなって音が少なくなると人里に出てきて人の耳に取り付く、そこで音を食べてしまうので村人たちは片耳が聞こえなくなってしまう。
ギンコは、こともなげにそれを退治します。
塩水でいいっつーのが、なんとも。。。
いいなぁ。


民俗学? というような疑問がどっかでありましたけれど、「あ/うん」は極普通に宗教ですよね。あんまり言及してる人はいないみたいですが、一般常識範囲。
若い人は知らないのかな、まあ、中年以降なら知ってましょうな。
でも、なんでそれが蝸牛の形をしているのかはわからない。w


んでも、村長の孫・まほに生えたのはあれは鬼の角だぁな。




無音を食べる「あ」に憑り付かれて、両の聴覚を失い。
その代わりに角が生えて周囲の音を拾うようになった、というそういう病気で、音の取捨選択を無意識にしている耳と違い、ヒトはその音の洪水に耐え切れない。
「あ」は極端に少なく、ギンコも話に聞いたことしかない。
どころか、まだ治療法が見付かっていない、という状況。


しかもその子、お母さんも同じ、その症状で亡くしています。


(こう言っちゃあなんだが、、、同じ症例があったというのがありがたい、治せるかもしれない。)
というよーな、ギンコの声が、冷たくは響かない辺り。
丁寧に作られているのだなぁ、と思わされました。




なんていうのか、物語的な職業というものの冷たさをどう描くか、というのはちょっとどうも難しい問題のようで。
今まで何度か私はその受け取られ方の食い違いにぶち当たっているのですが。
100回の同じ状況に当たるかもしれないことを考えなきゃいけないのが正しい職業であるのですけれど、物語りの受け手が見るのはほとんど必ず1回か、せいぜい2回でしかないんですよね。


背負っているものが違う。
ならば、その人物か、なんらかの周囲の道具立て、もしくは言葉なりでその「残りの99回」を感じさせなきゃならないのですけれど。
それは要するに言い訳でもあるのですよ、実際に。




「母」が大雑把にいって子を救った。


というシチュエーションだから一見美しくは見えても。
私はそれで終わるのならば、やっぱり言い訳と見てしまいます。


けれどね、なんていうんだろう、母が最期まで諦めずに戦っていた、母自身のために戦っていて、己が子も同じように戦って欲しいと願っていた。
諦めないで欲しかったというそういう話。
若い頃に夫と見た、荒々しい溶岩の音を胸に、決然としていた姿というのは。
真実美しいものだと思うのですよ、それで負けてはしまっても。
諦めなかった。
だからまほは助かったというのは。




耳を塞いで。
腕から響く音を時折聞きます、意味付けされたそれを美しいと思います。
無音の世界もひょっとしてなによりも美しいのかしれませんが、ヒトの身なので望みません。w