『浮草』

『浮草』
監督:小津安二郎
出演:京マチ子川口浩
  /野添ひとみ若尾文子


えっと要するに、、、なんというんだろ?
旅芸人の一座の人らが、毎年訪れる(んだっけ?)小さな島、そこには座長がやたらと拘る青年とその母がいてー。みたいな話。多分。


座長には一座の中にも若くて奇麗な奥さんみたいな人がいるわけですが。
別にどっちとも結婚してるわけでもなさそうだよね。
んでもってー、一座のほーの女性が子持ちの母子家庭のほうに殴りこんで「いい息子さんを持ってお楽しみですな」とか言ってます。
なんかいやらしい言い方だなー。。。
どっからどう見てもその息子、仕込みから20年ほどはたってますし。
どっちかというと数年前に押し掛けたお姉さんのほーが愛人の位置なんじゃないのかと思うんですけどね、その辺のところはどうなんだろう。


で、座長に相手にされなかったもんで。
(まー、それもそれでどうかと思うんだけど。)


一座にいる女の子をけし掛けて、その息子を誘惑さすなんてぇことをやってますが、さっくりあっさりと二人揃ってマジになられてしまいましたとサ。
この息子、郵便局に勤めて上の学校を目指してて。
「ワシらとは世界の違う住人なんじゃいっ!」
とか父親の(息子には父親だって一応内緒)座長は言ってますわけですけどもねー、まあ、そんなところがムカついたんではないのかと思うんですよ。お姉さんは。




ある意味で、自分たちの位置にまで引き摺り下ろそうとした、と。
うーん、想像は付くけど、それは見ながらちょっとずつという感じでした、ある意味でこれは純文学に近い。映画産業が華やかななりし頃、それこそ月数本というペースで量産されていたのとは別に、各映画会社がそれぞれ一本くらいずつ、採算をまるで度外視した大作を撮っていたのだと聞くのですが、この小津監督は真っ先に名前が出てました。


掴み合いの女の執念がテーマなぞではなく。


それはもちろん、描かなくてはならないことなんだけれども、それはあくまでも時代や土地なんてぇしがらみを含めた時にそこから湧き上がってくるものでしかないというのか。離島の親子も、それを置き去りに全国を廻る座長も。
彼に惚れて押し掛けるまで、ただの芸者だったお姉さんも。
かつかつに生活していくのがやっと、キレイゴトすら余裕がないと言っていられない、勉強をしてるって聞いただけで、世界が違うって恐れ戦いてしまうよーな(そして逆に猛反発したりとか)、そんな背景がなければ話としては成立しない。


別に私は、映画から人間の苦しみ悲しみなんてぇものを読み取りたいのではなくて、もう少し単純に感動したり感心したりしたいわけなのですが。そのためにはまー、逆のことも必要なんだなぁと程度には覚悟してるわけですが。


そこに根っこがあるように見えないと辛いことはやはりあるわけです。
「なんか暴れてる」みたいにしか見えなかったりねー、むしろそっちのほうが好きで、そーいう「自分たちとは違うモンスター」を見て楽しみたいとか、ありうる感情かもしんないけどだったらそれならそれで最初から怪獣とかのほうがいいよなー、というか。
( なぜ 特撮の話。)




いや、普通の人間だけが出てくる中で、根拠もなく。
とゆーか、感情移入する隙間なく喚き散らす話っつぅのは私は苦手なんです、たまぁに「自分と似てる」なんてぇキャラクタがいて、たまたまその場合だけ説明がなくてもわかることはありますし。
他の人らにとってそーいう具合に作用する物語りがあってももちろんいい。
けれど、その評価に乗れるわけではない。
どんなに偉い人間が理論的に褒めていたとしても、それを見ている(なんなら解説を先にでも)間に感じ取れないのならば私にとっては無価値なわけですが。


要求しているのはシンプルなことなんです。
動機から語って欲しい、そうでないのならば、物語りの一個の世界の中からそれを感じ取れるよーにして欲しい。


そういう意味では、私が見た中では。
月並みな感想でしょうが、小津監督がやっぱりなんだかんだと優れているなぁ、という気がします。痛み、苦しみ、悲しみ、妥協が。
やっぱり生活していく上の、我々と同じ土台から発生しているってね。
ちょっとずつだけど理解することが出来ましたし。


一座が丸っきり通り魔のような災難で閉じて、息子は駆け落ちして。
結局は全てが元の鞘に収まっていくだけなんですが。


ああ、こういうものなのかもなぁ、人間って。と弱いところも醜いところも含めて思うことが出来ました。
なんか、費やした概ね二時間の時間分、悪くはなかったっす。