『アートエンターテインメント 迷宮美術館』狩野派の野望

なんか、みつるさんみつるさんと司会のお姉様にやけに連呼されていた気がするんですが、出演者一覧に載ってないと思ったら「326」と書くのか、はーん。いや真面目な話、人名と思わずに見逃しておりました。
ちょっと可愛い感じの人ですよね、わりとイラスト寄りの人みたいですが(アニメにも関ってたりで)物を作ることが好きって感じでなんか良かった。気になっちゃいましたよ。


かのう・派です、“かりの”派ではございません、なんかもうどっちでもいい気もしないでもないけどどっちも単に苗字としては正解だし。


どっから始まって、どこで終ったのか。
なんてことを思ってたらおばあちゃんが出てこられまして、「あたしの代でお終いにします」とおっしゃっていたので今も続いてるんだ?! ということになるわけですね。娘さんしかいなかったんだろうな。
(そして今は多分、家としての機能はないんでしょうね。)
(ぽそぽそと個人個人が絵に近いというか、関るという意識はあるようです、それは名前が変わっていっても。)


Wikipedia狩野派


二代・元信さんが(知らねっす)家としての基礎を固めたという、わりと定番のお家の興り方、しかしその場合は初代が天才ということのほうが多いかな?
要するに、一代めが成り上がり、秀才でもある二代めがそれをある程度普遍的なものにするという感じなのですが、初代さまには触れられてなかったんでわかんないや。あ、でも当人が偉大な二代めが自分の父親を奉って一代前からカウントするってパターンもあるか。
(調べ)お、初代が幕府お抱えになってるんだ、こりゃはっきりしてますね。


いやまあそんなことはいいんですが。
えーと、その元信さんの絵は、、、どんなだったっけか、室町時代の絵師さんだから、わりと地味というかかっちりした作風というのが利に叶ってるんですが(ただの絵師じゃなく御用絵師なわけだし、やっぱり)、まあ、だいたいそんな感じかな?
そうそう、扇子に細かい絵を描いていた、という内容で褒めてましたっけ。
わりといろんなジャンルに挑戦していたみたいで、なるほどなるほど。




そして、織田信長豊臣秀吉に仕えた永徳さん。
わりと派手好みっつーか、襖なら襖をどかーんと突き破ってでも(要するに全身が描かれてない)伸び伸びとしているというか、覇者っぽいと言われてみればそんな感じかなー。この人の名前は今でも時々聞きますね。
やっぱりこう、派手だからなんじゃないですかね。


さすがに素人が見ても、襖とか衝立とか、かなりのサイズのところにすら収まりきらない気迫ってのは純粋にすごいと思うしな。この方も職業絵師ではあるんでしょうが、才気っていうかアーティスティックなところもちゃんと兼ね備えてますよね。
狩野派ってわりとそういうところあるような。)


あと、こちらは政治的にも重要な、豊臣と徳川の二股を掛ける時に、新しく三代将軍・家光のところに送り込まれた13歳少年、探幽。
じーちゃんの絵を真似して、どかーん、と大作に挑んでみるものの。
しかしちゃんとちまっと構図の中に納まりこんじゃっているというか、当人もそれを自覚していたらしく、それ以降新しい表現方法に挑戦していた模様です。
んでやったことは古今東西の芸術を勉強していいところを取り入れるー、という折衷案というかなんというか。


13歳、という年齢も考えてみれば、対家光用だった気がするしなぁ。


わりと派手好きっつーか、趣味は悪くないけどはったり好きですよね。あのぼっちゃん(趣味はいいと思うんだ、裏で細かいというかなんというか)。
で、そっから別れたというか豊臣側についていた山楽や山雪という派も、半官半民としてそれなりの人生を送ってたよーですしね。晩年に山雪さんがちっと牢に入れられてたことがあったらしいけど、むしろよくそのくらいで済んだよな。
まあ、探幽がいるしとりなしとかもあるものなのかな。


山雪とその息子が、日本美術史の初めての書を為して。
その中でわりと探幽さんのことも褒めてたりしましたよ、とりあえず「いい度胸だ!」(いくら計算が裏にあってもさぁ、いくらなんでも13歳)と褒めるところから始めたかったんじゃないかと思いますが正直、そんなことはむろんなく、ちゃんとストレートに、えーとどこを取り上げていたのかは忘れましたが...orz




が、頑張り屋さんだったということで(ちょっと待て)。
だだだ、だって新しい画風っつーか、中国の画風を取り上げていたということくらいしか覚えてないんだもん;


あああ、評価が最近まで低かったってなってるわー。
うんまあ、ほら、エピソードのわりにすごく堅実な印象が。
こうした人の努力の上に、狩野派はちまちまと長生きしたということでしょうか(なんか微妙に失礼じゃありませんか)。