『アラバマ物語』

歳には見えないよ!

『アラバマ物語』
監督:ロバート・マリガン
出演:グレゴリー・ペック/メアリー・バダム
  /フィリップ・アルフォード


多分、「免罪」の話なんですよ、そういうテーマ。


けれどよく考えたら、その後延々、、、半世紀?
時間はよくわからないけど、ヒーローであり続けるような「彼」が農夫を追い詰めたのかもしれないとも思えなくもない。ヒステリーを起こし、己の陣営の人間を無条件に信ずることの出来る他人と違って、彼には娘の首を絞めた記憶があるのだから。その刻印は残っていて、人が見ていて、それを「犯人」が付けるのは不可能だった。


追い詰めた、というと違うか、けれど、「彼」は貧しい己らの層にも野菜だけで弁護を引き受け、感謝され、子を夕食に招いてくれる。
けれどその手は、「黒人」にすら差し伸べられる。


そーして、あの、農夫にとって、敵なんだ。
誰もが言外に認める、純粋な「正義」。
だったら正義に対峙する自分はなんだろうと。
罵倒にも脅しにも揺るがず、己の罪を暴き立てる存在を憎んでしまうのは、むしろ罪悪感のなせる業なのかもしれない。
もちろん、それが最悪の結果であることは知っているけどさ。


しかしそれでも、この結末を残酷だとは思わない。
それがそのまま、映画への評価なるだろうか。
どーにもならない運命を切り取ったよーに見えるから。




話は少女の名で、少し歳を重ねた声で始まる。
優しい父親、人が慕う、誰のことも責めない、静かな声で喋る人で、二人の子どもたちも彼を名前で呼ぶ、「なんで?」と聞かれると「お兄ちゃんの真似」「お兄ちゃんは生まれつき」なんてぇ答えが返る。
野球の試合に出てくれなくて、少年が拗ねる。
歳だぞ? 大事じゃないのか、と父親が彼を少ぅし脅したりする。


いやでも、まだまだ見掛け若いよー、なんだったらスーパーマンも行けるね!(いや、そんなことを言ってた人がね、はははー)(かっくぃーよなー)
あと射撃の名手だったりもします。
野犬を撃ってました、一撃必殺、どーもこう、よくわからんかったんだけど。
狂犬病の犬ってことかなぁ? 私もう知識ないんだよなぁ。


んで、ある日判事が訪ねて来て。
「黒人のレイプ犯」の弁護を頼みに来る。
相手は白人の女性。


なんていうのかな、もしかしたら小さな町に他に弁護士がいないということなのかもしれない、それとも、他に全く引き受ける人がいないのかもしれない。けれどでもさ、せめて余所から呼んだほうがいいんじゃないかと、思った。
あとでとんでもない方向にまでその「復讐」が及んでいるし、ね。
けれどなぁ、そうした時に「加害者」である黒人さんたちの意識はどーなるんだろうと、有識者は思ったんだろうか。保安官さんも確実にフィンチさんに肩入れしてたし。
(レイプ犯に、ではない、どう考えてもなんもしてない彼。;)




なんていうのかこれは、貧困と教育の不足から来る問題なんだ、と。
フィンチさんが言うのだけど、あー、、、なんというのかなんていうか、黒人さんのほーがね。片手が使えないけど健康な肉体に、勤勉で親切で実直で(ちょい寡黙)、ちょっと出てたお父さんなんかは教育あるんじゃないかな。
「被害者」の白人家庭は、長女以下まだ働ける男手が少なくて、酒を飲むと凶暴な父親を持って、母親はいない、弟がたくさん。


それでも黒人だから下、とそーいう時代。


しかし、いっくら見下しても食べる物にも困る現実は変わらない。親切なだけで労働力を提供してあげる(余裕のある)黒人男性をいくら見下してもなんにも変わらない。
てゆか、彼らには「差別」しか拠り所がないのかもしれない。


映画の中で、ちょっとでも余裕のある暮らしをしてる人たちが、揃って憂慮の顔をしていたのも。「被害者」の意図を叶えるために寄り集まったのが、全て同じ階層農夫だけだったというのも、それがもちろん現実的な描き方なのだろうけれども残酷だなぁ、とも思った。
いや、映画がさ。




平行して描かれる、町の中の怪談めいた住人と、フィンチさんの息子のほーとの交流めいたエピソードと、「裁判」にまつわる事情とがラストでクロスオーバーして話は幕を閉じます。
良かった、けど。
保安官が正しいと思うけれど(お父さんお父さん、いくらなんでももうちょっと冷静に;)(誠意の塊なのはもうわかったから!)、なんというのかなぁ、やっぱり残酷だよなぁ。


こないだの、多分2006年の、米国ヒーロー・ランキング一位の作品です。
人間って、どうしてこう、どっからどこまでも複雑なんだろーなァ。