君の居場所はそこにない。

続いております。
で。
仮面ライダーのほうは「動機」じゃのーて。
どっちゃらかというと「強い力」を手に入れるための犠牲なんじゃないのかと思うんですが、それが全てが終わったあとのウルトラマンとの運命を別けるというか。じいさんになって、のほほーん、と暮らしてそうな描写は仮面ライダーだとなんか違和感ありそうだなぁ、というか。
や、てゆーか。
「怪獣」がそもそも災害であるのならば、休止する時期があって当然というか。「ショッカー」のように普遍的でないものを敵としたわけではないというところにも原因がありそうな気がします。


いやむしろ、この話を進めると。
「まず敵ありき」なんだと思うんですよ、ヒーロー。
壊しに来る物が来て、そのあとにヒーロー。番組の中じゃなくて、人が頭の中で考える順番です。




平成ライダークウガ除かず)は。
白倉さんたちは「強い力」とは一体なんぞや、のほうに向かい、それを手にした人間とその周囲を描くっつーか。
案外と、敵との境い目が薄いというか(でも、ひょっとするとそれって、本筋なのかもなぁ?)(敵さんのテクノロジーでヒーローになったわけなんだよね、初代ライダーたち)、ヒーローも未熟というか。そんな描き方。


今更ながら、動機付けの再確認をしているのが高寺さん。
なぜ、人を守るのか、なんのために戦うのか、という。
しかし、この問い掛けはわかりにくい。;
それがなんでかというと、ヒーロー自体は「ステロタイプ」に見えるよーに、細心の注意が払われているからではないのかと思うのですが、ヒーローを未熟に見せるのではなくて、世界観のほうをズラしているというか。
まあこの辺は別のややこしい話。


んで、つまり『仮面ライダークウガ』はなんていうか、ウルトラマンぽいんじゃないかなと。
違うのは、平成以降のウルトラマンのようにそのリスク、というか代価を後で支払うということなんじゃないかなと。
むしろ、ウルトラマンが人間の味付けをされてくるのも、「仮面ライダー」的なんだと言えなくもない、ウルトラマンという種族を描かず、乗り移られた、体を貸す側のヒーロー個人の意思のみが描かれたり。




いっそ、ウルトラマンを「生き物」として描き(単に力として描かず)「大事なものを探しに行きなさい」とか言われて私を壁にめり込ませたり!
うーるーとーらーの父ーーー?!
(話がズレていきそうです、今は一応ぎりぎりラインの上。;)


むしろ、初期の再定義というか。取り込みというか。
冷たい理屈として見えていたそれが(人と関る、犠牲を容れる前)ウルトラマンたちが粛々と地球にやってきていた、というそこ自体が、案外となんらかの意思のものだったんだと後付け説明してるよーな気がするんですよね。
ウルトラマンメビウス』って。


で、それは一旦置いておいて。


なんだっけ?
ああ、そうだ、なんでなんらかの「犠牲」というか、話を作っていく上では「説得力」が必要なのかということなんですが、ソレって、完全に人間じゃない、我々とは違う存在である、というところに創作上のヒーローを位置付けているからなんじゃないかのかと。


(しかし現実の「英雄」も、違う存在のよーに扱われる気がする。)




どちらかというと、持っていかれてしまうというより、社会から隔離された存在になる、というスタンスなよーな気がしないでもないんですよね。
戦いが済んだからって、戻ってこられても困る、というか?
別の言い方をすると、現実社会の中に戻ってきてままならない、ヒーローの格好悪いところを見たくないというか?
(意味合い違うけど、でも結果は同じ。)


悪がおらないとヒーローはヒーローじゃない。
というか。
戦隊はでも、違うんですよね、平成ライダーも平成ウルトラマンもなんとなく違う、ずるいっていうのか。視聴者が説得力と感じるものが変わったか。
それとも特撮自体が定番化して、そこに描かれるものがズレていくということなのか。よくわかりません、あと投げまーす。


あとゾフィーさんは本当にすげぇずるいと思います。
だって皆のもうそうが本当なら(せめて推測)一人だけピ(ry