「君の体は君だけのものではない」。

今回は頑張って自殺を止めてみることにします。
相手は「私」で。
この時点で匙を投げないで下さい、私も嫌かもしれませんが! てゆか、てめぇ本当に死ぬ気があるんかい!!
(なんとなく生命力ありそーで。)


自殺テーマ、第三弾をお送りします。前回前々回は根性で探すと。


タイトルの言葉は、まあ要するに社会に所属しているのだ、とか人口が極限まで減ったらどーすんだ、とか家族や周囲や友人が悲しむだろうという辺りの説得が回収できるんじゃないかと思います。
別にとりあえず死ぬ気はないので、要するにこのラインの説得の妥当性を考えてみようと思うんですが、ソレが止める行為になるのかというと、、、なるよーな気がするから不思議だ(私の頭が)。




幼児虐待って妥当だと思いますか?
あと、家庭内暴力。まあ基本的にあんまし今の法律では取り締まれませんし、少しずつ変わっていっているそーですけど。とりあえず「道を歩いている赤の他人」を殴る行為とどっちが悪いと思いますか?


なんとなく、迷って、それでも後者が問題かな、と選択する人が多いのではないのかと思います。その人たちにとっては、「自分が社会的に拘束されている」存在であるという意識はそんなに違和感がないのではないかなぁと。
私は前者を悪と選択する性質なので、要するに社会的に見ると些か反逆児なのではないのかと思います。けれどでも、それが継続行為でなければどうだろう? と問いかけられたらどうしましょうか。
道を歩いている人を一度殴ること、己が子を一度殴ってしまうこと。
ちょっとした喧嘩とかでカッとして、すぐに謝るわけです。


さて、そもそも比べることが妥当なのかというと。
その設問自体がどちらかというと罠なんですよ。どちらを選んでも少し問題の趣旨を捩れば相手を追い詰めることが出来る、己の望む方向に誘導することも不可能ではない。
誘導したところで別に面白くないんですが(なんの話;)。




設問自体が、なにかに所有されている、関りの大小を示唆しています。
自分は、多分「世界でもっとも自由にしていい」存在です。
迷惑を掛けなければ、という文脈も存在しますね。それは妥当なことが比較的多いような気がします(ドラックとか過度のお酒は社会的にも迷惑でない?)(煙草は吸い方によるのかしら知らなーい)。


さて、なら、己の子どもは?
己の妻は? 夫は? 親は?
例えばボケてしまった親御さんの看病疲れで殺してしまった時、裁判なんかは別として、他の殺人と全く同じに責めますか? なんて質問でもいい。


この質問自体が目的ではないです、私は誘導もしない。
なんでなら、私も答えを持っているわけではないからです。
示唆、啓蒙のためにこんなことを書いているわけじゃない。問いを共有できたらいいというのが目的といえば目的でしょう。


その「揺らぎ」をそのまま自分に向けたら、それはどうなる? というのがこの場合は目的です。どーなりますか?
私だけのものではないような気もする、影響もあるでしょう。
悲しむという行為は私へのものであっても、他の損失もあるでしょう、心の傷もできることもあるでしょう。悲しんでくれる人がいる/いないというような問題ではない。




そういう結論を出さない人も当然おられると思います。
それが自分勝手というわけではない。想像力がないということでも多分あんまりない。あるのかもしれない魂のことを考えているのかもしれませんし。
社会や周囲を深く恨んでいて、顧みる気がないという可能性もあります。


いや。


それとも、「せめて自分の死では、消失では、悲しんで欲しい、苦しんで欲しい」という人だっているのかもしれない。そんなことくらいでは影響を与えたい。
そーいう人がいたのならば、私はこの理屈を完全に放棄します。
彼が彼女が、物がわかっていないと責めたくないからです。


代わりに、今、なんの影響もないのに、「死んで邪魔者がいなくなった」と快哉を上げられたら悔しくないかとでも言ってみようかと思います。上手く言わないとなりませんね。相手が思わず信じるくらいに。
や、本気で言いましょうか。そのほうが良さそうだ。
死者がどのくらいいて、どのくらいの勢いで忘れ去られているのか。


ああ、でも、それでは最初の理屈が使えない。
どうすればいいんでしょうか、一体。


(実は続きます。)