「荘子(内篇」

「荘子(内篇」
 森三樹三郎、中公文庫(1974.3)


まあ要するに。
無為自然」がいかに結構なことであるのかを理詰めで説いた本です。


うむ、こー表現してみると、いきなり最初から矛盾ってる(ところで名詞を動詞化して使うのはどうかと思いマス)わけですが。
そのことに関して、三樹三郎さんは(著者)(何故下のお名前)、友人である恵子の影響を受けてるんではないかとかなんたかかんたら。


ところで天才は本を書かないって聞ーたことがありますか。
大抵の偉人の書物は、その下のヒトが書いてるんだと、ソクラテスプラトンとか、孔子の書物も弟子のものじゃないかとか、仏典もその気があるし、モーセは当人の作って言われてたーな気もするけど。
(あと孫子もいることはいる、でも実用書だよネ。)
(日本だと観阿弥世阿弥なんかがちょうどソレかも。)


そもそも無為自然なヒトが書物書いてちゃいかんかと思います。
なので荘子さんが養殖物であるか(をぃ、相手は歴史人物)。
あるいはいっそ、別人の作、荘子の言動を記録したものであるのだと解釈してみるなんてのはいかがでしょう。




でもって、ここまで言えば『荘子』の内容に多少詳しいヒトならばもう。
どこに結論が導かれるかなんとなく察しがつくのではないかなと思うんですが。


私は、この書物、恵子さんが記述した可能性を考えています。


多分、この意見はかなり突拍子もないものではあるでしょうが、ソレを否定する要因はなかったのではないかと思います。つーか、荘子という人物そのものが存在しているかどうかを証明しているのがむしろ恵子さんなもので。
些か否定しにくい内容であると思います。
(もともと、明らかに後世人の手による部分の混入もあるとのことですし。)




別に根拠はありません。ナイ。
ただ、そー考えないと、時々荘子さんの襟首掴み上げて「なにしとんじゃくぉら?!」とか叫びたくなっちゃうんですよー(相手は古代人)。
恵子さんのこと、大概苛めすぎですっていうかぁ。
行動の端々から見て、どう考えてもかなり真っ当に友人っつーか、親友だろうとも思えるのに(そして荘子さんには他に友人の記述がない)、なんでそんなにキツいことをつけつけつけつけ言って、そこまではいいけれども、後世に残そうなんてするかッ!


というかね。
もう、凹まされっぱなしというか。
むしろ、そんなふーに友人を凹ませたことを、嬉々として書くよーなおっちゃんが「無為自然」とか言い出したらピコピコハンマー以上の強度の物で殴りたいです。
もしくは放置プレイ(気付いて貰えません)。




でもって、多少は性格わかるんですけどもやっぱり。
偽作部分にしてもそんなに性格付けが離れるわけでもないですし。
(万が一別人が記述したにしても、荘子さんの言動とされてるわけですし)
(てか、そもそもそんな意見は存在していないのでご注意。)


結構、なんつーか、実際にのんびりしたおっちゃんだよね。
「君は大きいばっかりで全然役に立たないッ」
とか恵子が言うと、それに返して。


「害がないものがそこにあってなにが悪いのかなー」
とかいうふうに答えてるし、風を避けるのに使ったり、その下で昼寝したり。
いや、恵子は自分家にある巨木に例えて言ったわけなのですが。




てゆか、意見が壮大であることを指して言ったので(略しすぎ)、恵子はさして悪くないっス。政治とか経済とかに役に立たない意見はいらないっ、てな感じの会話ですね。
時事問題を扱うだけで鼻高々、という中学生をほんのり思い出します。
(その人はあとで一国の宰相になってるってば。;)


まあ、この対話は良いとして。
あとはわりと恵子が一方的に苛められていたり、なんかの神話だったり、別の人物に仮託してちょっと対話風になっていたりします。なにかの象徴かもしれないけど、わからない部分も多い(人名が変っつーか)(いや、私がわからんのじゃなくて)。


万一恵子さんが書いていたとすると、苛められメモリアル。
ある意味で立派な態度と思うんですが(己の間違いを認められる)。


ふと居眠りから目覚めて、自分は蝶なのかもしれないとか呟く人間との友人づきあいからまず一考することをお勧めします。
しかしそこを恵子が記述していたとしたら。
大概友人に甘いんじゃねぇかと思います。
不気味なコト言ってんじゃねぇッ、と返せばいいのにー。ねー。
(有名な≪胡蝶の夢≫に向かってアナタなんてことを)(言う。)


あと、外篇と雑篇がありますが、どーも順番が覚えらんないのは秘密でス。