『仁義なき戦い』

しかし菅原さんはテレビ向きか。

『仁義なき戦い』
監督:深作欣二
出演:菅原文太松方弘樹


ドストエフスキー、ちゅうおっちゃん作家がいまして、いやロシア産の。
これが難解っちゅーよーな、文壇だかなんだかの評価にも関らず、妙に非常に面白いというか、いや、文章はクソ長いし、確かに登場人物の「口にしているコト」は一見深そうにも見えるんですけれども(実際、どんな端役に至るまでも物凄く物を考えてるんですけどもー)、しかし冷静に一つずつパーツを組み合わせていくと。
小説全体は、どいつもこいつも考えても考えても足りてねぇなと。
登場人物が未熟であるということは、なんとなく私はエンターテイメントたる資格があるよーな気がしないでもないのですよ、偏見だけど(言い切り)。


いや、文学的価値とやらを否定してるわけではなく。
つーか私にとっては、文壇みたいのがどーあろうとも、良くも悪くもあんまし心動かされないのでむしろ同じ物を評価(の仕方は違うけど全然)出来て良かったね。みたいな結論に至ってしまうわけですが。
いくら権威嫌いでも、物心ついた頃に死んでた存在は別に煙たくないっス。




とかいう、大概刺されても同情しねーぞー。
などと思われかねない、物騒な書き出しで始めてみましたが、そして映画とどこをどのよーに絡めるのかと申しますと。


若干、つながりを忘れてしまったんですが。
すみません、まあ、なんというか、わりと似ているんじゃねーかなと思います、いやむしろほとんど物を考えてないよーにしか見えないんですが、登場人物たち。
あまりにも皆で物を考えずに突っ走り続けたら。
いつの間にか生き残りは(極少)、生と死の問題を考えざるを得なくなってしまったという。でもってソレが、最初から死やら生やらを考えるというつもりで作られていたのだとしたら、それがメインなのだとしたら、はっきり言って胡散臭いものに成り下がっていたのではないかという異常に微妙な匙加減。




これは元が実話で、やくざ物で。
少しもそんなつもりはないハズなのに、思い返してみると「行いの報い」を必ず登場人物たちは受けている。受けなくてはならない。
その「報い」の担い手はそれでもやっぱり考えなしのやくざなんですよ。
正義なんて最初からどこにも存在していない。


それでも、それなのに、まるで考え深い執行者でもいるのかのよーに。


物語りとしての世界は進行していくというか。誰か、「そーいう存在」が私たちが頭で考える架空の漠然とした「正義」が彼らを殺し続けていくわけでは少しもなくて、それは喧嘩の弾みですらあったり、欲のためでしかなかったり、それを子分には隠して愁傷な顔をして泣いてみせたり。
意地のためであったり、裏切りのためであったり。
やっぱり欲得ずくだったり、つまるところ騙されて利用されていたりなんですが。


まあとにかく、人死にだけは事欠かないんですが。しかしそれぞれの理由で。




けれど、自分も二度も殺しをし。
これからも「裏切り」を理由にまた殺しをするぞってゆう主人公のひーちゃんが(なんでそんな呼び方をする?!)、その殺そうとしてるかつての盟友に。


「なんで俺ら、身内同士で殺しあわなならんかったんだろーなァ」


ということを言った時に。
どんな見方をしていても、案外暴力賛美をしながら見ていてすらも、笑う人は私は一人としていないと思うし。口でそのような表現になっていても、身内でない人間への己の手でやったものも、やっていないものへの悔恨も、やっぱり含まれているよーな気がするし。
それはもしかしたら、救いなのかもしれないし。


――そこまでの死者と時間の果てにようやくか!
というようなただただ効率の悪い物のよーな気もするのですが。


しかしまあ、それがやくざさんの世界特有かというと別にそんなことはなく、死という取り返しの付かない結論というところが少し違うのかもしれないけれど。
まあ、それは戦争などでも似てるのかな(似てはいないか)。




その効率の悪さ自体は、悪足掻き自体は、まあ、そんなに遠い話でもないよーな気がしないでもないんですよ。どう考えても利口ではないけれど。


しかし、我々と比べて本当に?
と考えると、それもやっぱり言い切れない。
殺しはしないけれど、案外と似たよーな、愚かな決意を私たちはたびたびしてるよーな気もしないでもないもので。




あ、若杉のおにーちゃんは別格で!
(何故オチをつける。)
ひーちゃんの義兄弟です、彼はいいっス!!