−TVゲーム長いほど暴力肯定?

例えばゲーム『ドラゴンクエスト』の中の十字架の付いた棺おけを大人が見て。
(キャラクタが死ぬとその状態になるアレ。)(ここの層に説明必要なのか)


「こんなものを“死”と思うのは間違っている!」


とか言い出したら、いいからお前ゆっくり寝て来い? な、疲れすぎだから、というのがぶっちゃけて本音なんですが私。
そーいう議論ぶった切る言い方を避けても、あれは“状態異常”の一種でしかないと思うんですよね。毒状態、盲目状態、とかいう治せるもの。
たまにそーじゃない、一度死んだら「生き返られない」ゲームなんてのもあるらしーですが、それって単に最初からやり直すだけなので、いずれにしろ死とは違う。




でもまあ、ゲームの中でも死ってあるわけじゃないですか。
上の生き返らないゲームみたいに、どう頑張っても復帰の不可能な状態がもたらされたとして、「そのキャラクタ」以外の世界を切り捨てることが出来なければ、「そのキャラクタ」の死。
そのキャラクタがなによりも大切ならば、そこまで構成された「世界」の死。
プレイを止めることは自分の費やした時間の死ではあると思うのですよ。


まあゲーム製作者が、“死”の名前を与えていませんけれど。
でもゲーム・プレイヤーからすると、現実世界の死に近いのはむしろそっちでしょう。
現象としての停止。




ただねぇ、“死”ってのは名前でもあるわけじゃないですか。
そりゃ、それなりに死をニュースで聞いて、動物の死や近親者の死を、たとえ一個でも経てからの子どもならともかく、別に成長を待つまでもなく。
でもその前に、人生の一番最初に見る“死”の名前がゲームの「状態異常」の一種だったとしたら、うん憂慮ってほどではないですけれど。


なんか嫌かな、、、と感じても許して欲しいと思うのですよ。


もし、そう感じるのが完全な誤りなのかもしれなくても。
だって、私はそういうふうに育ったわけではないので、そう思ってしまうのは正直止められないんですよ。そーいうふうな過程を経ていないんです、だからわからない。




けれどその思考を進めると。


「なら、なにを人生の最初に“死”として見ればいいの?」
ということになるのかなぁ。


動物の死? 飼っていた動物や、私みたいに自分の手で殺した昆虫とか?
それとも近親者の病気? それとも不慮の事故?


一番最初に見るのが一体なにであったら「健全」て言えるのかな。
そもそも子どもが“死”を考えること自体が不健全だ、と言ったら言いすぎな気がするけど、それでもあんまり幼い子には避けて欲しいような気がするけど。
それでもどっかで必ず出会うのなら、その情報を与えなきゃならないと思う。




それとも、一個の人格に対して、そんなふうに考えるところからしてまず傲慢で、それはそもそも偶然の流れに任せなきゃなんないものだよ、とか。
誰かがしたり顔で言ったらタイミングによっちゃ頷いてしまうかなァ。
うーん。


なんていうか、考えてもキリがないんですよ。
これが正しい! て言い切っちゃ駄目だけど、でも死の意味を、喪失を、自分よりも年下の子どもに聞かれることって、もう高校生くらいになったらありうるわけじゃないですか。その時、ちゃんと答えられないのは、やっぱりなんか不味いかなぁ、て思うし。


んにゃ、これが正しい、と言い切ることも必要なのかもしれない。
その、なんか一つをひたすら信じてる大人が、一人いるって子どもが思うのが、そんな悪いこととも思えない。その子が同じことを思わなきゃならない、というふうに押し付けないのならば、「俺はこう思う!」という人がいるのが酷いこととは思えない。




てか、子どもが接する“死”の問題じゃないのかもしれない。
もしかすると単に、大人の問題なのかもしれない、「子どもの問題である」という名を借りた、だって答えがない。どこにもない。


憂慮って必ずしも誰か、余所の誰かか、それを語る人間のもうとっくに通り過ぎた幼い時代のことじゃなくて、現在。
それを「憂慮」する、考えようとする人間の問題なのかもしれない。


ならば、間違っていてもそれはしょうがないのかもしれない。
弱いだけだけですよ、ソレは。


(NHKニュース『TVゲーム長いほど暴力肯定』という調査結果より。)