−人はなぜ人を殺してはならないのか。



≪人はなぜ人を殺してはならないのか。≫


私は多分、殺すことはあるだろうと思います。


てか、とある始めて買ったつー車に、助手席に人を乗せるのが始めてw ちゅー、微笑ましいシチュエーションにおいて(若かった)。
「車って、人が殺せるよね」
「うん」
「やっぱり、自分の人生を引き換えにしてもいいくらい、そのくらい憎い相手がいたらこれを選択するかもしれない」


などという会話がナチュラルに成り立っていた辺りでなんかが駄目です。
うんただまあ、車に乗るってのは、そーいうことを含んでいるよーな気もします、自分も含めて、「誰かを殺すことをも覚悟する」ものだと思ってます。
そして案外、そんな選択って人生において少なくない。




人を殺すほどではなくても、誰かを害するってのは、究極的にはほとんど全てそこに集約されていくものだと思うのですよね。
誰かと対峙する時に、それこそ、殺しあってもいい、というくらいの気概を持たないと、失礼だというふうに最近では考えています。それがどれほど軽いことであってもね。


私は、そうしなければならないならば、殺すと思います。


けれど、私や、上の発言をしたのも、多分大丈夫なんじゃないかと、それこそ戦争や本当に理不尽な犯罪にでも晒されない限り、それを選択することはないのではないかというふうにもまた思いますし、人にもそういうふうに言われます。
むしろ、そのための覚悟だと思っています。


「人殺し」をしたいとは、一瞬たりと、死んでも思わないことでしょう。
私はそれを食えるわけでなし、その必要がないからです。




ただ、これが私の答え、、、ということにはならないでしょうね。
なんでかというと、一般性がまるでない、正直自分の資質は自覚されている面も含めるとかなり珍しいものだろうとも思えるのですよ。


ただ、こういう答え方以外だと、なんだかこー。
なんていうのか、あんまり「正しく」はないんじゃないかなぁ、と思ってしまうんですよね。もちろん自分自身とは限らなくてもいいんですけれど。


この場合はこう。
この人はこう。
この時点での歴史はこう言っている。
この民族はこのように動く。
ここの事件ではこう。




んでこーゆースタンスは、多分、「私」とそれともう一人の「それを問いかけた人間は?」というところに向かうものなんじゃないかと思うんですよね。
それが自然になされた会話なら、そうなると思うんですよ。


いや、「人はなぜ人を殺してはならないのか。」という質問自体は、なんちゅーか生意気っちゅーか、子どもが、大人に向かって言う言葉だと思うんですよね。
なにかに触発されて、自然に零れてきたものならともかく、それをわざわざと選んだり考えたりして口にするってのは、底意地の悪さっていうのか。


自分の頭の良さの過信っていうか。


そーいうものが切り離せないのだろうと思います。
けども、その質問に含まれている成分は、それでもやっぱり、この世界が揺らいでいるものなんじゃないかっていう、不安定なものなんじゃないかっていう心配だったり。
困らせよう、と思っているにしても。
ほんのかけらほども、なんにも期待しない相手には投げかけない言葉であるよーにも思うんですよね。まあ、完全に信頼してる相手にも言わないかもしれないけど。w




だから、見せるべきは過程であって、結論じゃないと思います。
美しく急遽、見せ掛けでなんかしら作ったってそんなもので、騙されるほどに馬鹿でもないでしょう、実際。その子たちは。


ていうか、どんな意見であっても、どんなに極端でも。
絶対的に間違ってる答えは存在しないとも思うんですよ。
絶対的に正しい答えが存在しない問いかけって、そーなるものでしょう。


「君はどう思う?」
で構わないんだと私は思います。
出来うることならば「私はこう思う」ということを持っていられるといいですけれど、不可欠だとは限らない、結論を出さない誠実があってもいいんだと思います。




一緒に考えましょう、答えが別れても構わないのですから。