がんばりましょう。



干物オンナ狙い撃ち!?


たまにはというノリで、犬山さん(id:dogplanet)の記事にリンクをつないでみました。いやコメント部にですけど。


そもそも私。
「モテ/非モテ」という議論を見たことがないんですが。
多分それはホメオスタシスの構造を持っているのではないのかと、適当に当てずっぽうに遠くから言葉を投げかけて見ます。
要するに、どのような結論が出ようとも、いやむしろ結論が出ないことがもっとも健全なのではないかと思われるのですが。




要するに。


自分の価値を。
・「他人の評価に求めるか」
・「自分自身の内面に求めるか」


ということに極論付けられてしまうのではないのかと思うのですがどうでしょう。




ホメオスタシスというのは、要するに外から食料でもなんでも「自分ではないもの」を取り入れていくことは「自己の崩壊」につながる。けれど「閉じた一個だけのシステム」はけして永遠に動き続けることはできない。必ず衰弱していく。
そのバランスを取って活動を維持していく、という少し曖昧な意味です。


とどのつまり、モテるかモテないかというのは議論の中核ではなく(それは実数にすぎませんから議論は成り立たないはずです、むしろ健全な思考停止かもしれない)。
他人の評価を気にするか気にしないか、という個人スタイルの問題になるはずです。
そしてその議論は、なにをもってして「価値」であるかという命題をも、どれほど軽く扱っているつもりでも含まれてしまうものなのではないかと思います。




他者の目を気にして生きていくにしても、どの他者であるかをまず決めなくてはならない、しかしそれを決めるのは多分自分なんですよね。それを決めるのすら他人に預けてしまっても、どの他人を信じるのかは決めなくてはならない。
自分の判断から完全に逃れるのは、意外と、かなり難しいです。


反面、本気で自分だけで生きていくのなら、サバイバル能力を手に入れて山奥にでも篭もり自給自足の生活を行っていかなくてはならないのですが。そーいう人は多分悩んだりしないで誰が止めようがとっとと行っちまうと思います。
こんな議論に参加なんぞしてるわきゃーねぇ。




まあなので、「モテ/非モテ」なんぞで悩むというのは案外、健全というか悪くないことなのではないかと思うわけです。多少白熱したところで、そのくらい真摯だったことですし要するに。
ていうか、まあ、ほら。
宗教とか思春期な青年の悩みと本質変わんねーよね。


ちなみに小乗/大乗仏教も内実そんなだし。
(自分が救われるか/他人を救うことで自分を救うか、の違い。)
そこに、テクニックを混ぜて、とりあえず形から入るかー、というのが密教です。


ファッション誌みたいなのとか、そういう思考集団とかがそれに当たるかなァ。
ちなみにこの密教、儀式(=テクニック)部分のみに心捉われてしまうことがやはりあるみたいで、それなりに覚悟が決まってないと危ういみたいですよやっぱり。
というわけで、思い当たるヒトは各自反芻してみといて下さい。




とどのつまりその議論においては。


「モテ」に反応するヒト(反発でも可)は、ひょっとしたら自己の境界が危ういのかもしれないので、自分が信じるものを本当に心の底から信じているのかどうか一旦考え直してみるのがお勧めですし。
非モテ」に反応するヒトは、あまり害がなさそうな集団に混じって、適当に誰かと馴れ合ってくると癒されていいかもしれません。あとはまあ、超絶に害のないベストセラー作品等に「涙しなくてはならない!」という気概でもって挑むとか。
いや、新鮮でよろしいですよ? 意外と。




まあ一番お勧め、つーか手間なく楽になれる方法は。
思い切って「人間はなんのために生きるのか」と口に出して言ってみることですね、恥ずかしくなったら成功です。それでこそ貴方だ。


まあそういうことを口にして、堂々と生きるのもまた道ですが。
どーせ真性ヲタには無理っぽなので諦めましょうよ。


あああと、ヲタには、頭の緩いヲタと。
頭の悪いヲタがいるんじゃないかと思います。ちなみに前者はヲタというより養殖ヲタなのでいずれそのうち、ヲタでなくなるのではないかとも思うんですが、今のところ特に裏付けはありません。
ちなみに私は頭の悪いヲタです。
別に恥ずかしいとかありません、生まれつきだから仕方のないですよ。




(これは本当に、犬山さんid:dogplanetとの会話なんですか一体。)
(会話のつもりはあまりありません)(そしてそもそも、誰かの言葉が気になるということはいまいち悟ってないというのは、当然私にも該当するわけです)
(反省とかしませんが。)