私に微笑うな、ヒーロー。



例えば死刑制度が必要かどうかの話をする時。


それはどこかしら遠い話であって、例えば自分が処刑されることも。
自分が処刑を「する側」に廻ることもないという前提にあるだろう。賛成にしても反対にしても、そんなことは考えない。




そして例えば処刑を行う手続き廻りの人に、微笑まれた時に、それが全くの初対面であったとしてなのにその相手の情報だけがあったとして。
私は笑みを返せるだろうか、全く自信がない。
「死刑」はこの国に現にあり、その制度は司法制度の中で今、特に問題視されているようなこともない。そうされるべきでない人間がそれに掛かることはほとんどない。
その制度は信用していい。
そして多分、それは現実に「社会のため」になっているはずだ。


けれど私は、そこまで考えても、「その人」に笑いかけられるかどうかわからない。
「彼」(もしくは彼女)はなんにも悪くない。
そう出来なかったらば、悪いのは私だ。明らかに。




ヒーローの行う、もしくは時代劇の中で行われる「正義の執行」や「裁き」は。
けれどそーいう側面を切り捨てたパロディのようなものだ。
血が流れないことも多い、ヒーローは美しい、動きは派手でわかりやすい。
殺陣はダンスだ、特撮の戦闘は様式美だ。


ていうかそもそも、ありゃ嘘だ。


画面の中でどんなに血が流れても、誰も死んでいない。
もしくは、「殺されるべき」理由があるのだ、全く問題がない。異星人だったり、異生物だったり、悪事を働いて人を苦しめたり、人を殺したりするのだ。




そうじゃないという言い方もむろん出来る、逆にしてみる。
殺されるための理由付けをされる存在が、フィクションの中に「作られる」というふうに見てみる。一時間番組なら一時間に一組。
30分番組で一匹、せいぜいが前後篇でやっぱり一時間に一個体。
ミステリなら二時間で大本が一人、それに付随する数人(これは誤解でもいいけどね)。


つーかそもそも、なんでそこまでして殺さなきゃならんのだ。


というと、ヒーローをヒーローたらしめるためなんじゃないかと思う。
そうでないと、誰もヒーローだと彼を認めないのかもしれない。


でもそれって偽物じゃないかな、と思う、こーして考えてしまうと。そんなことをして30分の間に誰かを殺さないとヒーローでないのなら、ヒーローってなんだ。
悪がいなくなったらそれは正義でもなんでもないのか。
でも「正義」って、そんな「死刑執行人」のことを指してそもそも言うわけじゃあないだろう。だって、私はそれに対して、笑うことすら出来ない。




ヒーローは「死刑執行人」だと言ってみる。


死刑は、正しい理屈の中で行われているはずだ、そう呼んでも少しもあれだ、貶めていることにはならないはずなのに。
何故かそれはB級の響きを持つ展開にしかならない。
それはむしろ、グロテスクな思想、挙げ句の果てどこか子ども染みた「独善」のようにすら響く。いやそもそもあれは、フィクションの作り事にすぎないのだから、と窘められるのがよく似合いそうだ。
思春期のヒステリーにも似ている。




けれど架空のヒーローは実際破壊するための存在だ、必ず、例外なく。


そもそも「彼ら」は微笑う。
それも大人に向けられたものなんかじゃなくて、子どもに向けられる。
「悪」って作り物の栄養を与えられて、ヒーローとなって、それで子どもがそれに憧れる。んじゃあそもそも正義ってなんだ。


そこでは誰も死んでいないのだから、それを恥じることはないのだろうが。
けれど私が、無邪気にそれを信じていいのかどうかはわからない。作り物でカラフルで、ごてごてしくわかりやすいからじゃなくて。


そもそもなんでそんなものが必要なのか誰か知っているんだろうか。
それが現実であるのならばともかく、作り物であるのだ、延々と積み上げられているのだ、「必要」でもって作られているに決まっている。
理屈捻じ曲げて、嘘で塗り固めて、蔑まれてそれでも作られるのならば信じられるのならば、それはそれに負けないほど確かに必要だからに決まっているわな。




虚構の奇妙な歪みを。
気付いているのが私だけだと思ってるわけではないよ。


それに「気付いて」いてもヒーローを生む人たちはどんな気持ちなんだろう。
それでも微笑むってどんな感じなんだろう。
それはそれで、現実に負けないくらい本当に強いのかもしれないが。