おや、面白いことやってますね。



東雅夫さん。 ≫ 幻妖ブックブログ


加門七海さん系列だとすると、私は微妙に「違う」かなー。
理論が先に立つんだもん。
もうちょっとふわふわした「現にあるもの」に対して理論を無理矢理ぶっこんでいくというか、枠に押し込んでいくかというのが自然な流れな気がするのよネ。


なに言ってんだか、わかんないよねうん。
てーか、オカルト素養って、知識の過多とは全く関係がないものだと思うのですよ。「闇」を知っているか、闇というかなんというか、この世に、対立する正義、どちらも正しいという状況と、それのぶつかり合いと。
そしてさらにその二つの違いすら飲み込む闇があるのを知っているかというようなことですよ。言葉じゃわからない、引き裂かれた経験がなければわからない。




「親」や、そーじゃなくてもそれに依存して生活しなきゃいけない母体に、「自分の悪行」ではないことで責められたことがありますか、てことなんですが。
くだくだしく言葉を連ねても、知らない人には電波。
知ってる人は多分、上段だけでクドいくらい。


生まれついた「素体」を「悪」と断定されれば、まあなんていうか混乱が起こるものなのだと思うのですよ。
具体的には、人と違うということだけで責められたら、それを認めなくてはならない「秩序」を慕う気持ちと、でもそれはおかしいんじゃないか、違うだけじゃないかという反発の気持ちに引き裂かれるのが普通と思いますのよ。




オカルトなんてのは単にその一形態でしょう。


宇宙人がいよーがいまいが、幽霊がいよーがいまいが、それを語り継いでいるのが人間だということ、しかもそれが集団で、ただ一人がやっているのではないのだということを忘れていてはなんの意味もないのではないですかね。
実在してよーがしてまいが。
「幽霊にも宇宙人にも会ったことない人間」がそれを語るのはそーいう意味だと思うんだよね。この世に隙間があるのだと信じているということでしょう。




ていうか、「架空のヒーロー」もそれだよね。
まああながち、架空じゃなくてもヒーローってそんなだけど。
アイドルもそーだっていうヒトいるよね。


この世界とは、一線を成すもの。ね。


現代、目に見えるものは理尽くしのがちがちだと思うのは、私の心情に反するのですよ、それだったら、なにも作り事の嘘っぱちごときに対して、いろいろな人が。こんなに苦苦しい思いをしなくてもいい。
面々と続いてきた、「ありえないもの」を語り継いできたという行為は、現代のフィクションとあまり違いがないのではないのかと。




けれどそこに、確定したなにかを求めていく人らがいる。


過去においては、表立たない組織、西洋の秘密結社やら、日本にあったらしい、技術を元とした闇のネットワークやら。オカルトの定義付け、理論。
現代においては「権威」とか「価値のある誰かの評価」とか。
価値があるなし、高い低いなどという評価はまた別として。


そもそも。
たかがフィクションを楽しむのに、理由付けされなければ安心できないというのは、自覚していないのならば不健全ですよねぇ?
数もそうかな、何人何部と本の煽りにまで付いている。


自覚があるのなら、全く問題はありませんよね。
やっぱり10人が読んだものと100人の読んだものなら、100人のほうが優れている可能性が高いし。特定の誰かの評価が、というのが自分と趣味が合う相手ならそれはむしろもっとも健全な興味でしょうし?
でも、それが「自分の行為」、その媒体を読んだり観たりすることへの言い訳になったり、自分自身のの価値を高めることと思っているのなら純粋に滑稽ですよね。
理解し尽したというのならば、もちろん別として。


「読んだだけ」「単語を知ってるだけ」で偉い。
ま、フツーに滑稽ですよね。




まあ。
新しい平成に入ってから玩具を売ることでのみ成立してきた「架空のヒーロー」と「民俗学的知識見解」に、地位の違いなんて本当はありゃしないんですよね。
現実に関っている影響の大きさでなら、「ヒーロー」が勝つのかもしれないくらい。経済効果のほうが強いのかもしれないくらい。
東さんはそしてそれを知っている、だから面白いことだと私には思えたし。
それをわかっていない畏れの混ざったような「返答」にはちょっと意地の悪い笑みも漏れる。いややっぱり、怒りはあるからね。それでもね。


子どもの喧嘩だよなぁ、とも思う。
ならば、より、子どもであるほうが勝つのが健全でしょう。
異形同士の争いとしては。


ま、非健全な結論であっても、それはそれでしょうがないのですが。