「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(3
- 作者: J.K.ローリング,J.K.Rowling,松岡佑子
- 出版社/メーカー: 静山社
- 発売日: 2001/07
- メディア: ハードカバー
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昔。
ショタコンなら1巻からでいいけど、そーじゃないならお勧めは3巻から!
それから遡って1〜2巻を読むと、いろいろと「わかる」ところがあって楽しいんですよー、とその日初対面の女性に勧められたのはいい思い出です。
(個人会話をバラすな。)
ちなみにダンブルドア先生と、マクゴナガル先生が好きです。
いやもう文句なしに、一番格好いいじゃないですか。
マクゴナガル先生は出てくるとかならず一回は決めてくれるし!
「じじばばこん」の場合のお勧めは聞きそびれてしまいましたとさ。あははー。w
つーか私は、この巻の≪ムーニー≫と≪パッドフット≫の関係が嫌いです。
ん、いや。でした、かな。
まだ少し自信はありませんが、昔よりずっとマシになりました。
実際、「彼ら」のこと考えると、ちょっと気分が落ち込んでしまうくらいで、ふらふらとネットの感想やらを彷徨っていたりしたのですが。
この巻が映画になるって聞いて、配役が決まったって辺りでしょうか。
読んでる時は、それほどでもなかったんですが、あとから思い出すと「ああ、嫌だなぁ」と。
こういう、嫌なものがある時は、いつもは女性のミーハー感想を見るに限るのですが。
悲劇やら、精神的なつながりも美味しくいただいてしまう彼女らに、その時ばかりは気圧されてしまいまして大失敗。
「死」や「悲劇」を美化するのはちょっと、私には馴染めないのですわ。
いや、それが悪いともまた思わないのですが。
≪ムーニー≫はどこまでも優しいし、≪パッドフット≫はなによりも気高い。
単独なら好きなのですよ、どちらも。特に前者なんて本当に、こういうヒトが周囲にいたら幸せだろうな、と個人的に思うようなタイプですよ。
でも、このふたりってのが嫌。
負の感情でしかつながりが持てない、そりゃ、「悲劇」があったからとも言えますが、言えますが、それだけじゃあないでしょう。根っこはそれ以前にあるのです。
(それがなにか、というところまではわかりませんが。)
隠して、奇麗に書くことも出来るのだろうに、いや、なんでわざわざこのふたりを醜悪に書くのか意図がわかりません。
そして、それをなんでハリーたちの前で見せるのか。
未来なんかいらない、過去しかいらないっていう淡々としたふたりの会話のシーンが、本当に本当に大嫌いなのですよ。しかもそれをハリーの前で!
自分たちの大事な大事なはずの親友の息子の前でやってるんですよ。
なんにも巻き戻せない、単に自分の感情の決着をつけるためだけの復讐の行為を、お互いになんの疑問もなく、そんな時だけ意気投合して。
思いやりとか、気高さとか、どっかに置いてきたとしか思えません。
大っ嫌い!
と、思ってました。
映画はどんなふうに作ったんだろうと思ってました。
怖かったですね、正直。見るつもりとか全くなくて、ただどうにも気になってました。
スネイプ先生が、ふたりを指して「痴話喧嘩」みたくゆーたそうです。
――ほ?
えーちょっと待って下さい、一体なにがどんなふうになったんですかあのシーン、ていうかスネイプ先生が口を挟める時点でかなり原作と違うのですね?
あーうんいや、その、喧嘩をがつがつして下さる分には一向におっけーです。
しかも介入しようもんなら、あとで後悔しそうな割り込めない雰囲気ってのはものすごくよろしいんではないかと思います、負のつながりなんて気のせい気のせい。
喧嘩って、相手にどんな下らないものでも身勝手なものでも、なんかしら求めてないと出来ないじゃないですか。なんと言い繕おうと。
だから私は、嫌いじゃないんですよ。
そしてそもそも原作でも、彼らは、ほんの若い、未来ある子どもらに諭されて、その未来の可能性に目が眩み、復讐の手を下ろすのですよ。
「彼ら」だけなら嫌い。
でも、別の誰かがいるのならば、それは悪いことではないんでしょう。
純粋すぎる、似たもの同士ってだけなのかもしれません。
見た目が違っても、補い合うにはどこか似すぎていた。
彼らの関係ってのは、そういうもんなんではないかと今では思います。
そうして、いろんなものがどんどん介入していくんでしょう。
私の勝手なイメージですら、ね。w