『凶気の桜』

ヒロイン可愛かったヨ

『狂気の桜』
監督:薗田賢次
出演:窪塚洋介高橋マリ子


まあでも、実際、思春期っつーのはこういう独特のものなんではないのかー、という気がしないでもないんですよ。
自我が膨らみすぎて、他者との境がなーんか曖昧、というか。
過渡期というか。


そん時に、他の内面にまでぎゃーつく言っても許されるよーな気がしてしまう個体もあるし、そこで嘆き立てて自分に浸る個体もあるし。揶揄ってるようにも聞こえるけど、私はソレを覚えてるクチですよ。醜さを。
(ヲタは結構自分のものを忘れられないよーに思う。)


彼らを踏みにじった大人と、彼らには所詮興味もくれなかった大人と、彼らに与えようとした大人とがいたわけなのですが。
その違いって、育ち損ねとまともに社会に対峙出来た、という成功例とに結局別れてしまうよーな気がするんだよな。
最初がやくざの成り上がり志願で、次が「消し屋」(殺し屋のバージョンらしいよ、生活の痕跡から記録から消してしまうというヒト、普通に殺しもやってたぞ)、最後が大御所やくざだったりはしますが。




しかし私にはこれが普通の青春映画に見えるわけです。
彼らの行う暴力も、叫びも、ほとんど等価のものに見える。
偶然に彼らの一人に出会った可愛らしい少女の、バスで子どもを抱いた女性に対して席を譲らない男に対する毒づきも、程度の違いはあれど系統は同じように見えているんですよね。
(その程度の「妥当」な嘆きを非難してるわけじゃなく。)
(しかし暴力もまた、他人との交流手段の一つにしか見えていない。)


てゆーか、彼らの不満である状況を解消するのに、他の手段があるのかというとそれは実際なんだか怪しいのですよね。
そりゃ、正当化はできないでしょう、「暴力自体」は罪ですよ。
しかし別の方法で、彼らが、「店で騒ぐな」という程度のことですら、それを相手に通じさせることが出来るかどうかは非常に怪しい。
だってそれは「自由」の範囲だし。
そもそも、他人に迷惑を掛ける自由が保障されている国なので、それを縛るものはせいぜいが個人の良識しかない。そこを踏み越える人間を咎めれば逆に暴力で返ってきかねない国でもあります(それは日本だけではないけれど)(ただ、「そのこと」を許容までしてる国はあんまりないよなぁ、と思う)。
(自業自得って嘲笑っちゃうんだよね、フツーの人が。)


青春映画でもあるし、自意識の醜さの映画でもあるんだけれど、わりと日本に特有かなぁ、という気もしないでもない。




そこで若者に「美しいもの」を背負わせず。
彼らに裁きを行わせず。
一緒になって彼らを嘲笑う、というのかなー。そんな感じ。


暴力の部分を否定するんじゃなくて、他人の(街中での)横暴に眉を顰めるところからして「自意識過剰」って嘲笑っちゃうようなそんな映画ね。
でもそれって、自分にそーいうところがないとやんないよね。
ある意味で、己の中のそーいう部分を。


社会や世界に傷付けられる、自分の中の脆い部分を笑っているというような、愛してるんだか愛してないんだかよくわかんない自意識との向き合い方をしてる映画のよーに見えるんですが。
作った人も、「愛してるんだか愛してないんだか」わかんないんじゃないかしら。まああると面倒いよね。




白い特攻服みたいのを着た三人の若者が、まあ言っちゃえばそれを危惧していたのに(腕力強い)(意思も強いっていうか馬鹿)、やくざに利用されてってしまうよーん、てな感じでまあぶっちゃけそれだけなんですが。
三人それぞれが選んだ大人の側には違いがあるよね。


それが彼らの運命の違いでもあるけど、結局全面抗争に巻き込まれちゃあ一緒かねぇ、やくざさんらっつーのも、なんか自意識狂ってるしね。
(でもそれを自覚してると思うけど。)


本物の暴力の前に、為す術もなかったー。


じゃなく、所詮若者でなくても暴力って自意識の所産でしかないよーん、という映画だったのかなぁと思ったんだけど(ここらはわからん)。
なにがしたいんじゃあっっ、消し屋ーーーーー?!!
(多分依頼されたまんまだね。)


(じゃあ自意識って誰のものが勝ったのさ)(全員大負け。)
(まあいいけどな。)