「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」

東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ (ちくま文庫)

東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ (ちくま文庫)

≪密林.com≫


さて、もう何年になるのかなぁ。
とある当時常連だった(つか住んでいるとまで言われたぞ;)チャットの中で、目一杯遊んでた時に出会った、ちょいと気真面目な感じの女の子に、なにか本を薦めてと聞いて返ってきたのがこの本。


その子は兄に抑圧を受けていて。
つーか、メールを見るなんてのは当り前、それを文句言おうものなら怒鳴られた、みたいなことで相談を受けたことがあります。チャット越しになにが出来るかっていうと、正直なにもないんじゃないかと思う。
メールに限らず(それは一番顕著な例で)、彼女はずっとそういう扱いを受けていたんじゃないのかな。


彼女を支えていたのが≪フェミニズム≫。
私に感覚を共有して欲しかったのかな、と今になると思うけど、どうだったのかなぁ。そのことを覚えているだけでもマシなんだろうか。




筆者の遥さん(可愛いので苗字で呼ぶ)は関西系のタレントさんなのだそうだ。
で、なんつーかインパクトのあるタイトルの上野千鶴子センセーはよく知らんが、なんかフェミニストの代表者なんだそうだ。
(つーかこのタイトルでなかったら読まなかったしな。)




男尊女卑と聞くと、可哀想にという意識が先に立つ。
男でこうならともかくも、女なのでそこで思考が止まってしまう。
フェミニスト思想の人に会っても、ごめんなさい偏見持ってますが、とでも言えば責められるようなこともないし。
それで許してくれない相手には許される必要も感じない。


さて。
遥さんはタレントなので、公のところで話を交わしてられます。
テレビというもので交わされる会話が、個人個人そのものの思想のぶつかりあいだと(表現は違うけど)思ってしまったので、彼女は戦いの仕方を。
手早く相手を言葉で叩き潰す手法を上野センセーに習いに来たのでした。




で、先生の答えは、叩き潰しちゃダメ、弄ぶの。


なんだよなー、うむ、確かに格好いいのぅ。


フェミニストを意識していたし、多分そうなるはずだったのかもしれないけど(巻末の関連本の紹介とか)、これは学問を志した人とそうでない人、、、というか。
1どころかゼロから知識を手に入れようとしたヒトの奮闘記なんじゃなかろうか。




知識というものは武器になる、けれど知識だけ持っていても、その利用の仕方を知らない人もいる。
テレビという世界にいて、なんの知識もなにもなくて、その裏に潜む声なき声を感じ取れた遥さんを、最初から上野先生が気に入ったのは自然な気がしたな。
学問って別に生活と乖離なんてしてないと私も思う。


しかしまあ、文章の変わり方がすごいっっーか、論文を漢字の塊、ひるがえって学友も漢字、と認識していたところから、自分で単語の後ろに注釈を入れ、理論を構成するまでに!
もっと知識を吸収していく過程のほうも中心に聞きたかったなぁ。
まあ、需要がないんだろーけどね。




上野女史とは少しばかり、本を読んだ後も言動に出くわすことがあった、私が入ったのは「差別」への興味の一環だったのだが(同性愛差別の絡みで出てきた)。


上野女史に感じるのは、「弱者への労わり」。そして義憤。


現代ってのは、標準を越えた女、生きる場所を容易に選べる女にはあまり困ることがないのだと思う、上野女史が普通に生きていて、女性差別にあうことなんてないだろう。
それこそ、フェミニズムに関らない限りね。
母親がそうなのでなんとなくね、わかる。




遥さんは違うね。
彼女はどっかしら弱い。なんていうのか感受性が必要以上に鋭くて。
そして優しくて、人の痛みまで己がものとしてしまう。
上野女史の、遥さんへの好意はそういうこともあったんじゃないかと今は思う。


時に言葉は鋭くても、なんだか誠実で優しい本だったな。