1「ナッシング・ハート」
- 作者: 獸木野生
- 出版社/メーカー: 新書館
- 発売日: 1997/07/01
- メディア: 文庫
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さあ、これが1巻めだ、どーんな風に書こうかな、と結構長めに考えていたのでこんな書き出しになりました。そのままにもホドがあるような気がします。
時列順が、少し曖昧なこの話は、この本の中では。
≪ナッシング・ハート≫が一つ。
≪ハート・ビート≫が一つ。
≪ハーフ・オブ・ビーン≫の話が二つ。最後のは、お豆の半分ってほうがそのままでわかりいいか。
ハート・ビートは、胸の太鼓。心臓のこと。
むしろ、これを普通の人が感じるのは、止まった後なのでしょうね(私は昔、たまに止まったからそれどころではなかったですがー、病気等ではないっスw)、逆に死を暗示するようなところがある。
ナッシング・ハートは、後のジェームス・ブライアン――この時にはマイケル・V・ネガットの、乳母の言葉。
死の中でも、消せないなにか。
多分、そんな意味。
作者さんがそもそも、「11歳の男の子が人を殺す話」だとこの話を説明したのだとのことです。この本を、今、そう表現されたらわりと少なくない読者が、むっとするかもしれませんが、それが彼女の中から出た、多分スタート地点なのでしょう。
この本の中で。死は、もっともありふれたものです。
それ自体がテーマでもないのですが。
(例えば、戦争だとか、“悲劇そのもの”が目的の話ではないのにね。)
乳母と、その子、マイケルの乳兄弟の死。
彼らを殺した、誘拐犯の死。
マイケルの身替りで、彼の叔父であり養父が殺した少年。
この後も、彼に今の名を与えたジェームス・ブライアン、その息子。
元FBI捜査官。
少年アンディの母親、少女オクヨルンの祖父。
アンディの父親、彼と共に長い時間を過ごしたライオンのジェイク。
それぞれの脈絡の中で、それぞれの意味をもって、そもそも天寿を全うした人らも、あまりにも無意味にただ死んだだけの人らもいるけれど。
なんとなく、全部が同等であるような気もします。
11歳の子どもを挑発して、返り討ちにあっても死だし。
寿命を感じて森で戦士として、誇り高く独りで逝こうとするのもまた、全く同じ死。
少女は、祖父の死との引き換えのように、美しい少年に会ったし。
別の誘拐された少年マイケルは生き延びた。
この物語りは、ほとんどの運命がもう決まっていて、その中での進行をしていくような仕組みになっているようです。
そもそも読者は結末を薄っすら知っているし。
時々時間が戻るし。未来を知る作中人物もいる。
ジェームスも、他の誰かも、時々過去に囚われたりもする。
なにを書こうとしているのか、と聞かれたら、なんとなく作者さんは上手く答えられないのではないかと思いますし、正直に言うとそうであってほしいようにも思う。
透き通るように奇麗な幼いマイケルが、毒のような言葉を吐く。
乳母が繰り返し、いろんなことを彼に教え込む。
生きていく上での、覚悟しなきゃならないようなそんなことを。
戦略研究所のマイケルの師は。
彼に、いつか会うだろう「無害な優しい」人間の話をする。
まるでそれから送る、マイケルの。
長い独りきりの人生の準備をしているような、それも慌しく、本当に必要最低限のものだけを出来る限り引っ掴んでいくような、そんな素振り。
彼のたどり着く、少し大きめの家と。
そこで暮らす、本当になんでもない人らの待つところへと。
行き着くまでのひたすら長い道のりのために。
どうして絶望せずに、どうしてあれだけ傷付きながら、逆に少しも傷付かずに私たちのところにたどり着いたのか、奇跡のように思えるとカーターさんが後の巻で言ったのが、ひどく印象に残っています。
あと、どーしてそんな人生であの性格なのかも、不思議だーーー。
(ああ、最後で落とさずにいられなかったorz)
好奇心って枯れないのかしら。。。