『Shall We ダンス?』

なんでかなぁ。

『Shall We ダンス?』
監督:周防正行
出演:役所広司草刈民代
  /竹中直人


なんと言ったらいいのか。
最初の展開が辛くて、それを我慢していくと段々と状況が好転していき、そうなると我慢していた間に張られた伏線の一つ一つに気付かされるっていうのかな?
かえって爽快感が増す、みたいな映画はあると思います。


そーいう話、だと、思ってみたんですが。


しかしなんとなく納得がいかない。
確かに、嫌な目、悲しい目にあっている人はいるけれども、陰口なんてのもあるし「気持ち悪い」と言われてしまった過去やら現状やらあるわけですけども。
そもそも主人公らにしてからが。
自分たちが社交ダンスを習っているということを隠してもいるわけなのですよ。周囲に。バレるとまたなにを言われるのかわからないから。




けど、皆、それを抱えているけれど。
でも、それって私たちも一緒に辛くさせることはないな、と思うんですよ。
落ち込みもなにも、その「落ち込み」の中に、その人物の辛さの中に視点をぶち込むことも出来るんでしょーけど、その辺「可哀想」な他人事だったんですよ。
それを、欠点だというつもりは毛頭ないのですけれども。
事態への距離の取り方はいろいろあるし(どんな記述にも映像にも、例えば音楽などにでも)、その少し離れた距離が、なんていうのかなぁ、むしろかえってその映画に普遍性みたいなものを与えているというか?


いやソレじゃあなんか胡散臭いな。


うーん、と、私たちが嫌な目を共有しなくて済むことは、あとのカタルシスを考えると必ずしもプラスに働くとは限らないんですが。実際プラスはないですが。
でもマイナスではないんだよね、なんか。
映画を見てるうちにひどく寂しくなって、「彼ら」が実在しているよーな気分になって、その幸せを物語りの統合性も考えずに祈ってしまうなんてのも、それもそれで幸せな経験ですけれども。そーいうふうにこの映画が作用した人って少ない気がします。
こりゃ、作り物です。絵空事。この中で終わるそーいう話。
でもリアリティのなさってんじゃない。
欠点があるとしても、少なくともきっとそこじゃあない。




ある日、電車から見ていた窓の中の美女のいるダンス教室の中に飛び込んだフツーの(マイホーム手に入れ済み、周囲の評価も上々、家庭内円満)サラリーマン氏が。
まあダンスを習っていく、というそれだけです。
ちょこっと横目で美女を見てしまいますが。
一回踊れたらいーなーという可愛いもんですよ。


そんだけ、なんですよねぇ。
でもってこの手の映画によくあるよーな、驚異的な成長とかしないんですよ、「なかなか頑張ってる」で終わりますよ。特定の評価とかないしさ。


てゆかさあ、そんなんいらねーよ。
主人公が魔法みたいに、何段も飛び越えてダンスを上手く踊っても、あんまり嬉しくないかもしれないよ。必要ないんだ。そーじゃあねぇんだ。
ダンスが楽しいなぁ、とひたむきであってくれさえすりゃあ、それがなによりも一番楽しいし、そのせーで周囲が変わっていくのもわかるし、私はそれが見たいんだ。なんならダンスなんか関係なくてもいい、真っ直ぐであってくれりゃあそれでいい。許す。




なにかを多分すごく「美しい」と感じているのに。
でもそれがなにかわからない、ダンス教室の先生は美人だし、例えば主人公の奥さんのために妙に親切に(ちょっと外れたw)してる探偵は愉快だよね。竹中直人氏の鬘も楽しいし、カップルが出来ていくのも案外と微笑ましかったし。
ちーさい理屈屋さんも、親切で可愛かったし。
あとちょっぴり珠子先生とかも好きですよ、可愛いなぁ♥


でもそれもこれも全部ピースで、何かの切れ端。
今は彼らがいないと寂しいけれど、最初からいなければ必要ないよーな積み立て。


やっぱり主人公なのだと思うのですよ、でも、それってダンスへの情熱かな? 技術だったらもっと上のがごろごろしてる、でも彼らは実際、ヒロインのダンスの先生のことを間違っているとは言ったけれど、それを気付かせる力がなかったよ。
そもそも彼は、言葉でなんかを言ったろうか。
決め台詞なんてあったかな、派手めなの。




なんか、コレをもし説明することが出来るのだとしても。
ものすごく胡散臭い内容になってしまうよーな気がどうしてもする。
ヒロインが本当に気付かされたことってなんだろう。
主人公がダンスから、周囲の皆が主人公から貰ったものって一体なんだろうか。それを言葉として還元しよーとすることが間違いなんだろうか。
むしろ、なんであんな皆揃ってもともと優しい人らが、少しずつ寂しい、居心地の悪い思いをしていなきゃならなかったのかだってそもそもよくわからないよね。