『モンスター』

『モンスター』
監督:パティ・ジェンキンス
出演:シャーリーズ・セロンクリスティーナ・リッチ


彼女が、鏡の前で「貴女は奇麗ね」と生まれて初めて言われた言葉を自分に向って繰り返していた時に、ああこれは辛い、元が美しい女でなければとてもじゃないけれど言えなかったろうなと思ったんですよ。


シャーリーズ・セロンという、世にも美しい女優がこの役を演じています。
なんでも特殊な太り方とメイクをして、「モンスター」と呼ばれた実在の女を演じました。そしてこの役でアカデミー賞を取ったのだというのですが。


なんか辛かった。
がうがうと女性の映画評論の人が噛み付いていたけれど、この役を演じきるのは普通の女じゃ息苦しいんじゃないでしょうか。男にはわからないのかもしれない、美しい女の中にもそれをわかる部分とわからない部分があって。
私も、この俳優じゃなきゃならないとまでは思わないけれど、“それ”をあまり持ち合わせていない美しい女でなければやれなかったように思うんですよ。
愛の話だと思っていました。


しかしこれは、自意識とエゴの話でした。
英語の単語は同じだけど、ニュアンスは違うでしょう、女という自意識を持った主人公、愛される夢だけで生きていた彼女の恋人。




主人公も夢の中で生きていたのだといいます。
夢でアイドルになって皆に愛されて、そしてふと気付いたらどことくなく不気味な風貌の売春婦となっていたという。そして同じように夢の中だけで生きるレズビアンの女の子に出会い、その子に選ばれます。
それはなんというか、本当に一瞬の夢でしかないただの勘違いです、お互いに。


けれど主人公は夢から醒めていた、自分に一瞬の暖かさと言葉を与えてくれただけのその子に与えるために、人を殺し物を奪い、彼女に他愛のない暮らしを与えた。
後になると彼女も贅沢まで望んでいたわけでもなく。
ちょっとした遊びと、たまに掛けられる愛情を望んでいただけ。


けれど、それを与えるのは主人公にとっては、犯罪に手を染めねばならないほどの重荷だったというだけのこと。そんなことで主人公はモンスターとなり、男たちを次から次へと殺すということになりました。
女の子は最初から、可愛い子を望む男を選べばよかったとしか言い様がなく。
なんでまた、というかなんの巡り合わせでレズビアンだったのか(それを責めるのは妙なのですけれど)、他のレズビアンたちは彼女にほとんど見向きもしない、お喋りの相手すらいない、むしろ主人公のほうが普通にモテたんじゃないでしょうか。


けれど主人公が欲しかったのはレズビアンじゃない。
男たちでもない。
自分を欲してくれた、頭の悪い女の子だけ。




この話の、物悲しいというか、もっともおぞましい部分はひょっとしたら、そこまで悲しい勘違いなのに守る者を手に入れた主人公が、「まともな人間」に近づいていくということなんじゃないでしょうか。
その愚かしさはわかっている、わかっていても捨てられない。
そのために人まで殺す。
モンスターと呼ばれる。
けれど、そんな主人公を少しずつ周囲の人たちが気に掛けるようになるまで変わっていきもするのです。もう少し能力があれば、全く別の人生が開けたんじゃないか。
男だったら、としか言い様がありません。
それかせめて、もう少し都会だったら、売春とまではいかない、けれど女を商売にして少しずつ這い登っていくことも出来たんじゃないかと思ってしまうんですよ。美しいとは言い難いかもしれないけど、そうなって欲しかった。
(その時にこの映画は存在しないわけですけれど。)


この話は実話なのだそうです、警官を手に掛け、事故を起こし主人公は追われることになり、女の子は家に帰ります、そして最後まで夢の中で、薄々と犯罪を気付いていながら自分に与えられるもののレベルが低いと怒っていました。
特に悪気すらなく。


大抵の女と、男(よほど変わり者を除いて)はこの映画を全く別のものとして見るんじゃないでしょうか。女は主人公のために涙するんじゃないでしょうか、わかるから、そして女の子を憎むでしょう、全部わかっていても私も憎い。許せない。


男性は案外、この話に少し酔うんじゃないでしょうか、ある種美しい愛の形だと。
なんとなくそんな気がするし、実際にそんな感想を見たようにも思います。


救い、なんもなかったなー。
女の子は裁判で逃げるように罵って去り、主人公は弁護士さんに抱き締められます、私だって抱き締めてやりたいわい。そして死刑になるわけです、現実も。


でも、私、彼女が好きです、人殺しでも。
そう思う人も、そんなに少なくないんじゃないでしょうか、それはやっぱり、私たちの中にも彼女と似た部分があるからなんでしょうか、人を殺さないだけで。