そんなふうには思いたくない。

中学校の授業中、私は変なことをたくさん知っているガキだったもので、半分自習になったその回は、なんだか女生徒が廻りに寄ってきていた(そんなに交流とかはないんだけどねー、なんかたまにそーいうことが)。


第二次世界大戦の最中。
キリスト教にかぶれちまって徴兵を逃げまくった男の話。in日本。


一人が口を開いた。
アメリカはキリスト教?」
「うん」(わりと)
「なんでアメリカは戦争をするの?」


ものすごくはっきりと結論だけ言うと、多分今でもきちんと彼女に説明しきる力がない。頑張ってはいるんだけど、なんというのか、私の少し異様なくらいの知識欲は「彼女たち」にそれを伝えるためというのが根底にあるのかもしれないというくらい、なんというのかそれは忘れ難い出来事だ。
だいたい、誰かに伝えることが常に念頭にあるし。
伝えられないものは、あんまり意味がない、よーな、気がしてる。




そーして、その時の私は、そのことを「わからない」と言えなかった。
いや、一応はわかっていないでもなかったんだ、例えば「食べていい動物」と「食べていけない動物」があり、己らの規定による「食べていけない動物」を食べる異教徒を非常に馬鹿にするのだとか。
(韓国の犬食、日本の鯨・小鳥なんかへの蔑視もその文脈でもある。)


異教徒を人間扱いしないことがあるのだとか。
あとは、「正義」もあるのかもしれない、日本がその時「悪」であったとか。


思想や仕来りは、遠く離れた地でむしろその原点となる部分が大事にされる傾向があるのだとか(儒教なんかは北朝鮮・韓国のほうが影響が濃い)、要するに言葉で伝わると微妙なニュアンスが抜け落ちるとか。


私には、中学生当時から上記知識があったりしたんだね。
しかし本当に、なんも言えなかった。
言えるわけがない、上からどうつながるのか、文面で見てもわからない人も少なくないだろう、ましてや相手は女子中学生。
わからない、とも言えなかった、適当にもにゃもにゃと誤魔化してしまったんではないのかと思う、全部は覚えてないけども。




私は、何十回と「自分で言うな」と言われたけれども、人より頭がいいのだと思っている。けれど、私は、彼女のほーがずっと頭がいいような気がしてならない。彼女には確かに、私の何分の一もの知識もなかったろう。
それを有機的に組み立てることも知らないんだろう。
そんなことを一生やらずに、縁なく過ごすんだと思う。


でも、そんなものが必要じゃないだけなんじゃないのか。


彼女には、「キリスト教を理由に殺人を、従軍を拒んだ男がいた」「アメリカはキリスト教の国」というただ本当にそれだけのことで、それを奇妙だと思う心があって、なんというのか、上手く言えないんだけども、それって掛け替えのないもののような気がしてならない。
そしてもしかすると、私には一生手に入らないのかもしれないとも。




それは、彼女が言うとおり奇妙なことなのだと心の底から思う。


どんな理屈で説明がつけられるのだとしても、それはその次でなければならない。
「うん、変だ」と言えるだけの強さがなかったんだから、そして今も物によっては危ういのだから、あんまり私は大したこともないんだろう。とも。
頭の作りが多少良くても、使い方がなっていない。
多分、私の「知識」に恐れ入って、そんなことを口にしてくれていなければ、多分、なんというのか、今、私はこうして言葉を紡いでいないと思う。少なくともこんな形では。


彼女の言葉を、稚気であるのだと、片付けるよーな人間に成り果てることだけは、絶対になにがあっても私は嫌だと思っている。
それと同じことを、考えることは出来ないのかもしれない、そうなるのにはもう、私の「知識」は重いのかもしれないけれど。けれど、この果てにも、同じように疑問に思うことの出来るところがあるような気もする。


そーして、それを目指しているうちに、「彼女」に。
いつか本当にそれを伝えることが出来るのかもしれないと夢見ている。


私のコレは、この淡い後悔は、多分神話の中に出てくる≪知恵の実≫というものに相当するんだろう。けれど、だからこそ出来ることもあるのかもしれないと、多分どっかで信じている。