『CURE キュア』

『CURE キュア』
監督:黒沢清
出演:役所広司うじきつよし
  /中川安奈萩原聖人


ああ、あの友人の医者ってうじきつよしさんかー(画面見ろって;)。
ちなみに私、この手のタイプの(もともと友人で助言キャラの)お医者さまを「椿さん」と呼ぶ癖があったりなかったり、ちなみに『クウガ』を見る前から知ってる人までそう呼ぶのは、、、なんでかなぁ。;


役所広司氏は警察の人、刑事かな?


とある時から頻発するよーになった、異様な殺人事件を追うことになります。その犯罪の特徴っていうのかなぁ、なんというのか全部犯人別なんですよ、ほぼその直後に捕まっちゃうもので(計画性とか全くないの、衝動殺人というのもなんか少し違う)。
ただ、それが妙に続いて起こる。
しかもほぼ全員、その理由をちゃんとは覚えていない。




そーして、どうもその「きっかけ」となるらしい、だるっとした茶色のセーターを着た青年が、全く記憶をなくして海辺の砂浜に倒れています。
それを拾って帰った男性は(なんか押しが強いのか、それともそういう相手を選ぶのか、警察に行きたくないという彼の言うことを何故か聞ーてしまう)(まあ凶暴にはちょっと見えないし、嘘付いてる様子とかはあんまりない感じだけどね)、彼と話をして。


翌朝奥さんを殺します。


別にその動機が語られるってこともないんですが、とゆーか私、これをなんの説明もないままに単に黒沢清監督への興味だけで見て、かなり最近になって≪あらすじ≫を読んで始めて「キュア=治療」というタイトルの意味がわかりました。
ぶっちゃけ、ピュア(純粋)と勘違いしていた節が...lllorzはずい


いやだからつまり、「殺しが行われる」ということの理由付けを、映画を見ている間も見終わってからもさっぱりと理解してなかったはずなんですが、これが案外、不思議なことに知った今となっても映画の印象自体はさして変わっていません。
特に、テーマと思っていたことのベクトルが真逆だったりするのにね。


私は、作中に行われていた「殺人」を治療だとは全くもって思わなかったんですよ、中盤に出てくる女医が、要は「男を切り刻みたいから」医者になったんだ、というふうに言われてたのはさすがにわかったんですが。
単に「彼」に付け込まれて殺人させられてるよーにしか見えなかった。
だぁって、殺人が唯一の解決法じゃないじゃん。
不満を解消するのに、他の方法がなかったのはせいぜいが上の女医さんくらいで(あとは友人のお医者くらい?)(これはまあ、「殺した」相手がね)、あとは文句の一つを言うなり人間関係を清算するなりで片が付いた。




つーか、不満感じるたんびに殺してたら人いなくなるじゃん。


要は、「彼」が現れた瞬間にたまたま殺す(程度じゃないのに殺意を増幅させられてしまった)相手がいた、というだけのことで、もし殺人を犯した罪で捕まらなくてもその程度の不満はまたいくらでも湧いてくる。
費用対効果がどう考えてもおかしいんですよ。
だから、私は「彼」の行為を治療とは思わなかった。


そしてむしろ、侵略されてはならないシンプルな「悪」と捉えた。
んで、その解釈でいっても、わりと終盤近くまでは問題ないんですよ、だって役所さん演じる刑事が、「彼」を憎みその行動をなんとかして止めようとしていたのだから。次から次へと事態が進展して、追い詰められても彼を憎んでいたのだから。
特に見る上で勘違いがあっても支障はないわけです。
とゆーか、そう考えるとかなりありふれた展開だと思う。




でも、この映画はラストが違う、刑事さんは勝たない。
刑事には精神を病んだ妻がいて、彼はその妻のことを大事にしている、と思っていた、思い続けていた。けれど、殺意があった、認めるのがとてもとても怖かった。地位も大事だし、そもそもそんな「殺意」を認めるのも人として辛い。


もしかして、あのどっちゃかというと単純に未熟な「彼」の。


唯一の治療の成功例が刑事、悪を憎むべきだとゆー立場のハズの主人公だったんではないのかと今になると思うのですが。
(見た時には単純に「悪」に負けてしまったと思ってた。)


しかしそれでも映画の印象は変わらない。
治療という誘惑に耐え切れず、自分ひとりの身だけを考えるというのは、治療であって治療ではない、殺意を認めるところから始めて、もう一度、その殺意を別の形で昇華することを考えなきゃなんなかったと私はそれでも思ってしまうんですよ。


精神にとってはそれがどんなに負担であるのだとしても、ね。
そして、この映画は、別にそー考えながら見てもそもそも構わないのではないのかと、なんでだか結末があんななのに思ってしまうんですよ。