目明し編

ちょいと逆転して≪罪滅し編≫を書いてしまったのですが(日付けは逆転させます)、その中でちょっとだけ書いた「王者として生まれた詩音」という言葉が全篇の印象の先に立つのが≪目明し編≫でした。
個人的に。


多少のネタバレがあります、後の篇(ここでは罪滅し編)には触れません。


最初は、“恋愛”なぞではなく、同情としか見えない。
明らかに「弱い存在としての」悟史に対しての感情にしか見えない。


それが嘘っぽいというわけじゃないし、女だからって自分より強い男にしか惹かれないなんてぇ考え方はしない(つか、私がするわきゃない;)。
でもなんか理屈っぽいのだ。
詩音のモノローグって、あまりに理性が勝るのだ。
そして、だんだん、意識が悟史に侵食されていく中で、詩音はどんどん悟史との接点を失っていく、現実ではない悟史との触れ合いが主になってしまう。




もし詩音が目の前にいるとしたら、私がたとえば魅音なぞの立場だったとしたら、もはや彼女になにを言っていいかがわからない。
けれど、詩音が道化だったというつもりもまたあんまりない。




詩音の見立ては正しかったですよね。


悟史は強いヒトだったんだと思う、裏返しの立場の圭一を通してだから薄ぼんやりとほんの少しずつですけれど、書かれれば書かれるほどそう思えてきます。
詩音の見る目は確かだった、ならどーしてあんな結末になったのかな? かな。




さて。


詩音は彼女の生まれにあまり関係なく、「王者」なのではないかと私には見えました、なんていうのかな、目的を達成しようとする時の、あの異様なまでの鋭さというか決めたことに対する迷いのなさとか。
正直、彼女にはあんまり「園崎」を継いで欲しくないかも。。。
力があればあるほどなんか一個間違えると大変なことになるよなぁ。


それと比べるとわかるけど、園崎お魎さんて、多分甘い性質のヒトだ。;
魅音もこのヒトに近いのかもな、王者に対する「覇者」て感じ。
組織維持するためにはこっちのほうがいいのかもなぁ。




詩音vs魅音だと、まあまず、魅音の負けでしょう。
園崎もその意思が上にある限り、詩音単体に勝てるとは思えない。


それがこの篇全体ってことかな。
梨花ちゃんは除いて、基本的に御三家というのも園崎主体と考えるとして。)




第三話までの「本篇」昭和58年の前年。
昭和57年、北条悟史の叔母の撲殺事件の少し前に、「村」から引き離されて隔離されていたところからこの篇の主人公たる詩音が逃げ出し。
その悟史と出会うところから始まるこの話。


けれど、立場のせいで悟史の内面には近づくことも叶わず。
事件の兆候を薄々知っていながらそれを看過し、その後、本当にぎりぎりの手遅れになる寸前に関与を始め。
けれど結局、悟史の失踪に関ることも出来なかった。




そしてその翌年、昭和58年。
詩音は圭一に出会ってしまった。
そして、魅音が彼に惹かれていることを知ることになってしまった。
それが彼らの不幸の始まりでしょうな。どうしようもなく。


いや、そうじゃなくて、「園崎」を過大評価しすぎたところが本当の原因なのかな。
私には、詩音が「園崎が悟史をどうにかしたのだ!」というところが正直理解が出来なかったのです。
公由のおじーさんとのシーンですね。
怖い系演出されてたけど、私には別の意味で怖かった。




園崎は確かにやり方はとんでもないところがある。
(詩音の爪剥ぎ、その前の事実上の強制軟禁とかね。)
そして、外部の人間に対しても、聖域に立ち入るようなことがあれば、どんなふうに牙を剥くのか少しばかりわからない。


けれど、いわば外様たる北条同士が殺しあったからといって、なぜ悟史が「園崎」に許しを請わなくてはならんのだ? 警察かっつーの。
なぜそこで、詩音が蒼褪めるかがわからない。
悟史は、最初の最初から「園崎」に対する罪はなんにもない。




悲しい話でしたが、多分、多くのヒトと感想がズレているでしょう。
この篇は、もっとも推理が多くなると思います。
罪滅し編もまたエラい勢いで多いけどねー、情報過多状態だ。)